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第五話   「獅子千尋」

「これにて本日分の基礎鍛錬は終了である。ご苦労だった」


 教官のその言葉を聞くなり、戦士団の面々は力なく地面に倒れ伏した。

 もはや返事をする気力もない。正しく精根尽き果てた状態だ。フェルクですらガクガクと震える膝に手を置いてなんとか立っている有様である。


 最初にやらされた十周分の走り込みといい、ここまで課せられた鍛錬の内容は決して達成不可能な代物ではなかったものの、その全てに『演出』が組み込まれていた。実戦以上の緊張感を持って鍛錬に励むことはできたが、心身の消耗具合は尋常なものではない。


「このまま本日の総仕上げとして実戦演習を行う……と言いたいところだが、些か疲労が貯まりすぎているようだな。――ヘイズル、例のものを頼む」

「畏まりました」


 教官の背後に、いつのまにか数十人もの女性の集団が並んでいた。皆が皆、お揃いの侍女服に身を包んでいる。そのうちの一人が前に一歩進み出て、フェルクと視線を合わせた後に一礼した。


「館の副管理人と侍女を兼任しております、第三軍団所属のヘイズルと申します。ご滞在中は(わたくし)どもが皆様のお世話をさせていただきますので、どうぞよしなに」


 頭部に山羊に似た角を生やした女性――ヘイズルと呼ばれた侍女は、優しげな顔立ちに柔らかな微笑みを浮かべて言った。対するフェルクもまた、息も絶え絶えながらなんとか自己紹介を行う。


 ずらりと居並ぶ侍女たちはヘイズルの指示を受けるなり、地に伏すラテストウッド戦士団の面々に酒坏を渡して回った。フェルクは戦士長であるという身分を考慮されてか、侍女頭らしきヘイズルから直接酒坏を渡される。


「これは……?」

「当館自慢の蜜酒にございます。あまり量が作れず保存も利かないので一人あたり一杯だけですが、味は(わたくし)が保証させていただきます。どうぞ召し上がって下さい」


 やはり酒か、とフェルクは酒坏を見つめる。しかし、自分たちは未だ訓練を……いや、訓練を受けられるようになる為の体力づくりをしている最中だ。まだ実戦演習とやらが残されている。そんな中、アルコールを口にするのはまずいのではないかという思いがあった。


「酒精は弱めてありますのでご心配なく。またこの蜜酒には疲労回復や諸々の効果が含まれております故、館をご利用になられた訓練兵の皆様には必ずお出ししております。さ、グッとお呑みになって下さい」


 重ねて勧められてしまった。これを断るのは無礼にあたるかと判断したフェルクは、念の為に窺いを立てるように教官を見て、彼がコクリと頷いたのを確認した後に酒坏に口をつける。


 ――瞬間、途方もない幸福感に包まれた。


 なんだこれは、とフェルクは思う。

 喉に流し込んだ途端、否、酒に舌が触れたその瞬間、身体中の細胞という細胞が歓喜に沸き返った。

 神の雫を口にしたのではないかと真剣に疑うほどの芳醇な味わい。これが酒だというのなら今まで自分が口にしてきたものはいったいなんだったのか。議論の余地なく、これまでに呑んだどの酒よりも素晴らしい逸品である。


「ご満足いただけたようで何よりです」


 フェルクの顔色から全てを読み取ったヘイズルが微笑んだ。

 成程、これほどの逸品ならば自慢の品と紹介するのも道理である。

 フェルクは心地よい敗北感に浸りつつ、酒坏に残った蜜酒を丹念に味わいながら喉に迎え入れていく。


 名残惜しみつつ蜜酒を飲み干すと、いつの間にか自分がしっかりとした足取りで直立していることに気付いた。驚いたことに疲労感が消え失せている。先ほどまでは一歩も動けないという様相だったというのに、今すぐ走り出したいという衝動に駆られている程だ。


 疲労回復や諸々の効果とやらが十全に効果を発揮した結果がこれか、とフェルクは驚嘆する。諸々の効果という点が多少気になるが、天にも昇る幸福感を経験した今では些細なことと思えてしまう。


「うむ。どうやら十分に活力を取り戻したようだな。それでは本日の締めくくりといこう」


 全員が蜜酒を飲み干したのを確認した後、教官は話を切り出した。


「吾輩が諸君らの事前情報を得た際、諸君ら戦士団に大きく欠けているものが存在することに気付いた。それは『勝利の経験』だ」


 教官は腕を組んだままピシャリと言い切り、言葉を続ける。


「敵わぬまでも、長年魔獣の脅威から国を護り続けたその手腕と覚悟や見事。されどそれらは拠点防衛を第一とした防御戦であり、相手を退ければよしとされる類のものだ。つまるところ敵の撃破に至った絶対数がそもそも少なく、諸君らには『勝利』が欠けていると結論した次第である」


 教官の語った内容に誤りはない。

 確かに自分たち戦士団は魔獣の脅威から都市や集落を護り続けてきたが、必ず敵を仕留め続けてきたわけではないのだ。


 時には手傷を負わせて追い返し、時には都市や集落以外の方角へ我が身を盾に誘導し、防衛対象から脅威を遠ざける方針で防衛戦を続けてきた。

 勿論トドメを刺して勝利を得るに越したことはないが、それが容易に叶わない魔獣が多かったのも事実である。


「それはいけない。極めてよろしくない。勝利を知らぬということはそれ即ち、勝利に至る為の理法に疎いということだ。

 故に我が国での滞在期間中、諸君らには一つでも多くの勝利を得てもらう。模擬戦という形式ではあるが、勝利という成功体験を重ねることでレベルアップを図り、同時に勝利に至る為の術理を身に付けてもらおうというわけだ」


 気力と体力を回復させた戦士団の面々は、いずれも真剣な眼差しで教官の言葉を聞いていた。

 ここまでの話を聞く限り、教官の語る内容には道理があるように思える。

 蜜酒で精神が――少々異様なまでに――高揚していることもあり、彼らは一様にやる気に満ちた表情を浮かべていた。


「模擬戦の相手は既に見繕っておいた。一日の鍛錬の仕上げとして、諸君らには毎日彼との戦闘を重ねてもらうことになる。――出てこい」


 教官の呼びかけに応じて姿を見せたのは、鉄靴と皮の鎧、それに鉄兜を身に着けた兵士の姿だ。但し体格は小柄で小人程度の背丈しかない。それがガシャガシャと音を鳴らして駆けてくるさまは、まるで不格好なブリキの人形のようだった。


 到着したその兵士は、兜を脱いで脇にかかえ、教官に一礼した。

 ぎくしゃくとした一連の動作は明らかに付け焼き刃のそれではあったが、彼は練習した通りに上官への礼儀を示す。


 教官がうむと頷く傍ら、戦士団の面々は兵士の素顔に多少の驚きを感じていた。

 兜を脱いだ兵士の種族がゴブリンだったからだ。

 彼らの常識として知っているゴブリンは三種類ほどいるが、その中でも荒野に棲むゴブリン種に似ている。ゴブリンの中で最も矮小とされる種だ。


「彼が諸君らの模擬戦相手を務める『ゴブ次郎』だ。先の戦争において四ツの首級を挙げた兵士である。諸君らを侮っているわけではないが、まあ手頃な相手と言えるだろう。さて、挨拶をしたまえ、ゴブ次郎」

「オレ、ゴブ次郎。王様カら、名前モらッタ、ごぶりん。精一杯、頑張ル。ドぞヨロしク」


 がしゃり、と鎧の音を鳴らしてゴブ次郎は頭を下げた。

 対する一団もそれぞれの流儀で礼を返すと、教官は「それでは早速始めるか」と準備を促す。


 治癒士などの後方支援者を除いた戦闘員で班分けをするようにと指示されたフェルクは、手早く数人のリーダーを選出し、戦力が平均的になるように班員を選べと言いつけた。フェルクもまた、第一班のリーダーとして三十人程度の班員を確保する。


 そうして班分けを行った後、教官に呼ばれた第一班が訓練場中央に設置されている舞台に上がった。対面には既に準備を済ませていた兵士――ゴブ次郎が模擬戦用の武器をブンブンと振って待っている。


 第一班は試合に臨むにあたり「先鋒は誰が務めるか」と相談を始めようとしたが、それに先んじて拡声器を手にした教官が声を張った。


『では、これより模擬戦を開始する。時間無制限。勝敗はどちらかの勢力が戦闘続行不可能になった時点で決着とする』

「勢力……とおっしゃるのは?」

『言葉の通りだ。諸君らとゴブ次郎、どちらか一方が戦えなくなるまで戦闘を続けるということである』


 どうやら一対一を繰り返す勝ち抜き戦ではなく、一対多で模擬戦を行うらしい。


 その指示を屈辱だとは思わない。ゴブリンとはいえ、相手が自分たちより遥か格上であろうことはこれまでの展開から容易に想像がついたからだ。それを考慮した上で、誰をどの順番でぶつけて相手の消耗を誘おうかとフェルクらは考えていたのだが、アテが外れてしまった。


 しかし、いくらなんでもこの人数差で勝負になるのだろうかと誰もが思った。


 最初の数人から十数人は返り討ちにあうかもしれないが、それでも数の暴力を頼りに襲いかかれば圧倒できるはずだ。

 勝利を得る為の模擬戦とは聞いたが、このような形で勝利を得たところで有用な経験に……何かの糧になるのだろうか?


 そんな疑問を抱く一団だったが、教官は構うことなく試合の準備を進めさせた。

 両軍の開始位置が定まり、それぞれが武器を構え、魔術を修めている何名かが詠唱準備に入る。

 徐々に高まる緊張感が一定値を超えたところで、教官は号令を下した。


『両軍構え! ゴブ次郎対ラテストウッド戦士団第一班、死合開始である!』


 咆哮のような声と共に戦いの火蓋が切って落とされた。

 教官の口にした言葉のニュアンスが少しばかり気にかかったフェルクだったが、一度戦闘が始まった以上は余計なことに構っていられない。

 疑問を思考の隅に追いやり、ゴブ次郎に向かって駆け出した。


 腰のホルダーから投げナイフを引き抜く。握り込んだ右手の指の間に挟むようして三振りだ。確実に命中させる為に一度足を止め、頭上に掲げた右手を振り下ろす動きで投げ放つ。そのまま流れる動きで腰の短杖を引き抜き、風の刃を射出する攻撃魔術『放つ風刃(フェルジア)』の詠唱に入った。


(さあ、どちらへ避ける……!?)


 背後では仲間たちが弓を引き絞り、杖に魔力を篭めている。

 ナイフを避けようとした敵が左右どちらかに動いたところを仕留める態勢だ。 

 可能性は低いが上下の動きで避けようとした場合には、フェルクの『放つ風刃(フェルジア)』で確実に追撃し、あわよくばそのまま一気に突き崩すという保険もかけている。

 牽制射を避けた瞬間を狙って本命の攻撃を放つというこの連携攻撃は、ラテストウッド戦士団が魔獣を退ける為に鍛えた戦術の一つであり、同時に最も多用されてきた信頼性の高い攻撃方法だった。


 しかし結論から言うと、ゴブ次郎は上下左右いずれにも避けなかった。

 また、投げナイフを鎧で防御したわけでも、まともに食らったわけでもない。

 彼はただ、飛んできた投げナイフに対して得物(ロングソード)によるフルスイングを敢行し、真正面から投擲者(フェルク)に打ち返したのだ。


(なっ……!?)


 放ったナイフが凄まじい速度で戻ってくる。

 しかも奇跡的に刃がこちらを向いていた。

 咄嗟の判断で詠唱を中止したフェルクは、身を沈めることによってその弾丸ライナーを回避する。

 屈んだ次の瞬間に頭上を通り過ぎていったナイフは、髪の毛先を切断しながら後方に消えていった。


 背中側で仲間の悲鳴が上がったが構っている暇は無い。

 フェルクはすかさず顔を上げてゴブ次郎の動きを注視しようとして、しかしそこに居たはずの敵の姿がないことに気付いた。

 どこに消えた、と素早く左右に視線を巡らせるも見つからない。


「ぐあぁ!?」


 背後で再び生じる悲鳴。

 流れ矢(ナイフ)に驚いたものとは明らかに異なる苦悶の声。

 咄嗟の動きで背後に振り返れば、そこには天高く宙を舞う仲間達の姿があった。


「………………は?」


 仲間が、宙を、飛んでいた。


 異様な光景に一瞬呆気に取られたが、自分に向けて降り注いでくる仲間の群れを見てフェルクは我に返った。

 一人目は辛くも受け止めたが二人目以降は無理だ。

 受け止めた仲間をなんとか立たせた後、フェルクは落下地点から急いで離れる。


 高所から落下したことによる肉を打つ鈍い音が耳に届いた。

 手を差し伸べたい衝動に駆られたが構っていられない。

 敵を見失ったままだからだ。

 いったいどこへ、と思考したその矢先、再び別の仲間の悲鳴が上がる。

 フェルクはすかさず声の発信源に視線を走らせて敵の姿を捉え、そして目を剥く。


 ――ゴブ次郎が暴れていた。


 左手に持つ盾と、右手に握ったロングソードの腹を使い、最も人数が密集している中心地へと突撃しては戦士団の面々を高々と打ち上げていく。


 ロングソードの刃は模擬戦用に潰されているが、しかし鋼の塊であることになんら変わりはない。彼らの知るゴブリンとは一線を画する膂力によって振るわれる鈍器は、ラテストウッドの戦士達をボールのように天高く舞い上がらせた。


「よ、避けろ! 防御しても無駄だ、とにかく距離を取れ!」

「くそ、射線が通らない! 頼むから皆離れてくれ! これじゃ何も出来ない!」

「固まっていてはただの的だ! 散開しろ、早く!!」


 怒号混じりの声が飛び交う。一瞬にして大混乱に陥った。統制の取れた連携技など最早叶うはずもない。為す術もなく仲間が打ちのめされていく。


 ――彼らは知らなかった。今自分たちと戦っている一匹のゴブリンが、ノーブルウッド兵士長の首級を挙げた(つわもの)だという事実を。

 ――彼らは思い知った。今自分たちが戦っている一匹のゴブリンが、自分たちが束になって戦っても敵わない化物であるということを。


 そして敵の魔の手はフェルクにも及んだ。

 ゴブ次郎は集団の中心から一時的に抜け出るなり、一息に彼の懐に飛び込む。ただでさえ思考がかき乱されていたところへ簡単に間合いを詰められ、一瞬身体が硬直した。流れるような動きで繰り出されたアッパースイングが、フェルクの顎を直撃する。


「ご……、ぁ!」


 一瞬で目の前が真っ暗になった。

 途絶した意識が復帰するなり、透き通るような蒼穹が視界に飛び込んでくる。

 次いで奇妙な浮遊感が訪れた。

 自分が他の仲間たちと同様に宙を舞っているのだと自覚した次の瞬間、フェルクの身体は舞台の端へ無防備に叩きつけられた。


「……、……!」


 全身を襲う激痛に悲鳴すらあげられない。

 ただ掠れたような声が喉から漏れただけだった。

 咳き込むと同時、空気以外に粘着質なものが吐き出される。

 赤くべっとりと濡れるそれを見て、臓腑に甚大な損傷を負ったのだとフェルクは自覚した。


「……! ――、――!」


 どうやら治癒士達が待機しているすぐ近くに落下したらしい。白濁し始めた視界の中で、同胞である小人の治癒士が必死に何事かを叫んでいた。彼女の悲壮な表情と自身の血で染まった地面を見て、己が致命傷を得た事実をフェルクは悟る。


 意識が遠のく。視界が白に染まっていく。呼吸は既に止まっていた。やがて同胞の声すら聞こえなくなり、彼はその瞳を静かに閉じようとして――


「〈癒やしの光(ヒール)〉」


 瀕死の身体に柔らかな光が降り注いだ。

 途端に聴覚と視覚が復帰し、冷水を浴びたように意識が明瞭になる。

 傍らには翳した両手に残光を纏わせる、見慣れぬ魔術師の姿。


 がばりと身を起こしたフェルクは、快癒した己の身体を見下ろして愕然とした。

 今までも幾度となく治癒術を施されてきたが、瞬時にこれほど劇的な変化が生じたことはない。


「こ、これは……」

「無理を言って第三軍団から借り受けた専門家による治癒魔術である。完全に回復した筈だが、身体に違和感はあるか? 痛みや動かしづらい箇所などは?」


 問われ、フェルクは恐る恐る潰れたはずの腹を撫でたが、筋肉質な感触が返るだけで痛みらしきものは感じられなかった。手足を動かしても何の違和感もない。教官の言うように、完全に回復し終えていた。


「……いえ、ありません。信じられませんが、完全に治っているようです……」

「そうか。――では、往くといい」


 教官はビッと指を指して言った。

 真っ直ぐに伸びた人差し指の先には、集団の中心地で暴れ続けているゴブ次郎の姿がある。

 まさか、という感情に後押しされたフェルクは教官を凝視した。


「言ったであろう? これは勝利を得るための模擬戦である。勝つ術を知らぬうちは蹂躙され続けるだろうが、こうして完全なバックアップ体制を敷いているが故、何度でも諸君らを挑戦させてやることが可能だ。遠慮は要らぬ。勝利を得られるまで幾度なりとも挑むといい」


 平然と告げた教官の言葉にフェルクは青褪める。


 敵との実力差は今しがた思い知った。辛うじて目で追えたものの、喰らった攻撃は見えていても避けられるものではなかった。もう一度挑んだところで返り討ちにあうことは目に見えている。相打ち覚悟ならばダメージを与えられるだろうが、その結果、自分は再び死の淵を彷徨うに違いない。


 だが、舞台の周囲には何人もの術者らしき姿が待機していた。

 次から次へと量産される半死人を、先ほどの自分と同様、手早く回復させている様子が目に映る。


 たとえ自分がもう一度、否、幾度となく死にかけようが彼ら彼女らの手によって瞬時に治療されるに違いない。そしてその度にあの化物に挑みかかり、再び治療されるというサイクルを繰り返すのだ。……恐らくはあの化物に勝利する、その瞬間まで。


 フェルクは一縷の望みを籠めて教官を仰ぎ見る。

 しかし、教官の表情に変化はない。

 強いていうとするならば、回復済みなのに何故復帰しないのか、という疑問の色が僅かに窺えるだけだった。


「う……うおあああぁァァ――!!」


 救いは無いと悟った彼は、戦士長としての責任感か、一人の男としての意地か、はたまた死を前にした生物としての本能か、とにかくそういう類のナニカに背を押され、やけくそじみた叫び声を上げながら突撃した。




    +    +    +




「ああ……やってますね、バラン」


 訓練場に姿を現したのは第三軍団長のエルティナだ。

 ヘリアンが作った計画書を基に内政全般を任されていた彼女は、僅かな休憩時間を捻出して訓練の様子を見に来ていた。

 しかしその足取りはどことなく怪しく、声にも張りが無い。


「エルティナか。……どうしたのだその表情は。まるで病人のようだぞ」

「ええ、少々疲れていまして……。定期的に治癒は施しているのですが、さすがに誤魔化しきれなくなってきました……」

「む。お前の治癒魔術でも癒やしきれぬのか」

「治癒魔術も万能ではありませんからね。怪我や病気の類ならともかく、活力を補うとなると限界があるのです。……こんな時、セレスがいればいいのですが」


 バランは、あえてその台詞には返事を返さなかった。


 栄えある〝始まりの三体〟同士であり百五十年来の付き合いとはいえ、深く知るべきではない一面というものはあるだろう。バランは例の一件以降、エルティナのそういうところ(・・・・・・・)には触れるべきではないという結論を出していた。


 なお、エルティナは第四軍団長の名を口に出したが、別に彼女でなければいけない制約はない。ただ単に、身近な人の中ではセレスが最もそういう表情(・・・・・・)を見せてくれやすいというだけの話である。


「エルティナ様、よろしければこちらを」

「……あら、ヘイズル。お久しぶりですね。元気そうでなによりです」


 エルティナはヘイズルから酒坏を受け取り、コクコクと蜜酒を呑んでいく。


 この蜜酒には一定値まで活力を回復させる効果がある。回復量は絶対値計算な為、高レベルの魔物には相対的に効果が薄くなりがちだが、この館と訓練場内でしか服用できないという限定的な用途も相まってそれなり以上の数値を誇っている。それこそ、レベル百以下の魔物ならほぼ全回復させることが可能な程だ。


 やがて蜜酒を呑み干したエルティナは、ほぅ、と声を漏らした。心なしか僅かに身体が楽になった気がする。手鏡を取り出して自分の顔色を確認すると、ここに来る前よりも幾分かマシな状態になっていた。

 鏡の中の表情が笑みを象る。称号にも使われている黄金髪だけは色艶を死守していたものの、徹夜続きの日々で目の下に隈が浮かび始めていたのだ。それが綺麗に消えていることを確認し、エルティナは笑顔のまま酒坏を返す。


「ありがとうございます、ヘイズル。とても美味しかったです。ここでしか呑めないのが本当に残念ですね」

「光栄です、エルティナ様。製法が製法だけに大量には作れませんが、お疲れの際には当館をお尋ね下さい。エルティナ様の分は確保しておきますので」


 ニコリと微笑むヘイズルに対し、エルティナもまた心からの笑みで応じた。「貴女も無理をなさらぬように」と告げると、ヘイズルは微笑みを深くして、粛々と館へ戻っていく。


「さてバラン。戦士団の皆さんの様子はいかがですか?」

「まだ初日である故、評価は差し控えたいというのが本音である。だが伸びしろは非常に大きい。歯車が噛み合いさえすれば、ある程度の力量(レベル)まで一気に引き上げることも可能だろう」

「なるほど。それで、今は模擬戦を?」

「うむ。借り受けた治癒士らのおかげで、効率よく戦闘経験を得られている。幾度となく挑み続けることができるというのは大きな利点だ。彼女らとお主には感謝している。……しかし、この調子では日が暮れるな。明日からは模擬戦相手を追加するなりしてペースアップを図らねば」


 ぶつぶつと呟くバランの隣で、エルティナはしばしその訓練光景を見守る。


 ラテストウッド戦士団の面々は、バランの言うように幾度となく敵兵(ゴブリン)に戦いを挑み、その度に返り討ちになり重傷を負っていた。しかしながら相打ち覚悟で敵兵にダメージを与え、自身はエルティナ麾下の治癒士の手によって回復されるなり戦線に復帰していく。


 ――もし仮にヘリアンがここに居たならば『ゾンビアタック』という俗語を思い浮かべていたことだろう。


 挑みかかる戦士らの表情が窮鼠や死兵の類に見えてしまったエルティナは、恐る恐る同僚に問い掛ける。


「…………あの、バラン? これは一種の拷問ではありませんか?」


 戦士の訓練については門外漢であるものの、凄惨な光景を目の当たりにしたエルティナはそう問わずにはいられなかった。

 しかし騎士団長にして教官役を務めるバランは、真剣な表情で首を横に振る。


「否、断じて否である、エルティナ。彼らは志願兵であり戦士だ。国を護る為に武器を執り、戦う力を求めてここに来たのだ。ならばこの程度の『頑張ればできる』鍛錬を乗り越えられぬ道理はない。現に脱落者は一人も出ていないであろう?」


 ここで訓練中止を願い出ようものなら、どんな目に遭わせられるか分からない。

 そういった恐怖がラテストウッド戦士団の背を押していたりしたのだが、幸か不幸か教官(バラン)がそれに気付くことは無かった。


「加えて言うなら実際の戦場は過酷である。いざ戦場に身を投じた際、少しでも平常心を保てるようにと鍛錬に工夫を凝らしているが、いずれは鍛錬の強度そのものを段階的に上げるつもりだ。戦場よりも尚過酷な体験を経たならば、並大抵の修羅場は乗り越えられるようになるだろう」

「……そういうものでしょうか?」

「そういうものである」


 バランは確信を持って断言する。

 対するエルティナは懐疑的な表情を浮かべていたが「専門家(バラン)が言うのならそうなのでしょう」と最終的には納得するに至った。


「ところで、彼女らがラテストウッドの治癒術使いの方々ですか?」

「うむ。魔術を破るのならともかく施すことに関する教育は門外漢故、借り受けた魔術師らに指導協力を仰ぐことにした」


 エルティナは舞台の傍で戦いを見守っている術者らを見た。

 そしておとがいに指を当てた姿で思慮に耽り、ふと思いついたアイディアをバランに伝える。


「なるほど。……では、最後の模擬戦で負傷した方々についてはそのままにしておいてください。教育実習として、ラテストウッドの方々の手で癒していただきましょう」

「む? だが負傷の程度はかなりのものだぞ。彼らの腕で癒やしきれるのか?」

「最初は難しいでしょうが、いずれはできるようになってもらいます。幸い負傷者には事欠かないようですし、反復練習を行う機会は十分にあるでしょう」

「……仲間の身体を標本にして教育実習を行うのか?」


 バランはしばし考え込んだ。

 確かに反復練習は上達に必要な行為だとは思う。技術(スキル)は使い込むことで精度や効力を増していくものだからだ。


 しかし、仲間の身体を標本に使って、というのは如何なものだろうかとバランは思う。模擬戦での負傷は、いわゆる致命傷に近いものが多い。そして致命傷である以上、治癒士が対処をしくじれば被験者はそのまま死に至る。


(万が一の時の備えもしてはいるが……)


 バランは先の戦争における一番槍の功績として、訓練中に『事故死』が発生した場合に王の御力で『対処』をしていただく、という取り決めを王と交わしている。しかしラテストウッドの戦士達は王の力を知らない。彼らにとって『死』は決して覆せないものだ。


 つまりエルティナの告げた提案は『一つ対処を間違えば仲間を死なせてしまうというプレッシャーに晒されつつ』『瀕死の仲間を標本に治癒魔術の教育実習を行い』『しかも一定水準の力量に至るまで幾度となくそれを繰り返す』という構図になる。


 バランはその絵面を想像し、真剣な声色でエルティナに問うた。


「…………エルティナよ。それは一種の拷問ではなかろうか?」


 治癒士の教育について専門外ではあるものの、さすがのバランもそう問わずにはいられなかった。

 しかし、エルティナは真摯な表情でバランに向き直る。


「いいえ。いいえバラン、それは違います。彼女らは先の戦争にて、仲間の生命を喪う悔しさを、苦しみを、そしてなにより自身の力が足りないが為の絶望を思い知ったはずです。だからこそ、彼女らは二度とそのような想いを得てはならぬと、そのような祈りを抱いてこの地を訪れたのです。

 ならばわたくしたちは彼女らの祈りに、願いに応えなければなりません。一ヶ月という短い期間ではありますが、その中で少しでも多くの術理を心身に刻んで帰ってもらうことこそが、彼女らの願いに応えるというものでしょう」


 エルティナは、生と死の両方を知る聖女の眼差しで断言する。

 そこに一切の迷いは無い。

 彼女の双眸に壮絶な覚悟を見たバランは、気圧されたように僅かに身を引いた。


「それに戦場とは過酷なものです。親しい友人や愛すべき家族が、直視を躊躇う程惨い傷を負うこともあるでしょう。そのような場面でも心乱されず冷静に治療を施せるよう、訓練の段階で悲惨な状況に慣れておく必要があります。何事も反復練習が大事ですから」

「……そういうものなのか?」

「そういうものです」


 エルティナは確信を持って断言する。

 対するバランは懐疑的な表情を浮かべていたものの「専門家(エルティナ)が言うのならそうなのだろう」と最終的には納得するに至った。


 その会話を傍らで聞いていた戦士団の小人は涙目で首を横に振っていたのだが、真剣に話し合う二人がそれに気付くことはなかった。


「そういえば。ラテストウッドといえば第七軍団長(ロビン)はどうしているのでしょうか」

「聞く限りでは大方の予想通りだが、大きな問題は起きていない。……相変わらずな様子ではあるものの、辛うじて許容範囲である」

「まあ……。わたくしの耳にはまだ何も入ってきていませんが、ラテストウッドの皆さんが少々心配ですね」

「こういう言い方は好まぬが、必要な犠牲である。例の件が終わるまでの間、現地の民には耐え忍んでもらう他なかろう」


 〝始まりの三体〟である二人は、同じ光景を想像したのか揃って溜め息を吐いた。第七軍団長の性格をよく知る者なら、この二人でなくても同じ反応をしたことだろう。バランは眉間に皺を刻んだ渋い表情で、エルティナは限りなく苦笑に近い微笑で、ラテストウッドの現地民に思いを馳せる。



 戦士団の最終班がゴブ次郎を撃破したのは、それから四時間後のことだった。




・次話の投稿予定日は【5月13日(月)】です。


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