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第十五話  「宿屋」

「ではこちらがお部屋の鍵となります。外出の際は受付に声をかけて下さい」


 程なくしてヘリアン一行は宿に辿り着いた。

 歴史には自信がある、といった風情の宿だ。受付奥に続く広間(ロビー)には宿泊客らしき旅人や冒険者の装いが見受けられる。日本のホテルでは絶対に見られない光景だった。


 恰幅の良い支配人の男性から部屋の鍵を渡される。数は三つ。ヘリアンで一部屋、従者三人に二部屋だ。ほぼ満室というのは誇張ではなかったらしく、慌ただしく動く従業員の様子からするに一部屋分は無理矢理開けてくれたらしい。


 特級客室は生憎の満室で、と恐縮しきりの支配人に対し、気にしないでくれとヘリアンは応じる。もっぱら貴族や豪商用として使われるスイートルームのような扱いらしいが今は興味が無い。むしろこの都市の生活を知れるという意味合いでは普通の客室の方が都合がいいぐらいだ。


「ご入浴については如何なされますか?」

「……この宿には入浴施設が?」

「ええ、それが当宿の自慢でして。宿泊される方の多くにご満足頂けております。他のお客様との兼ね合いがありますのでそれぞれ利用時間を決めて頂く予約制になっていますが、運良く一枠空いておりまして」


 どうやら辺境伯が言っていた人気の秘訣はこれらしい。

 支配人の男性は愛想の良い表情で「いかがでしょうか」と勧めてきた。偶々一枠空いていたのか、それとも紹介状を出したが故に一枠空けてくれたのか。恐らくは後者だろう。


 受付台に置かれた料金表を見る。そこに書かれている文字は――高度言語解析マキネ・トランスレーション機構(エンジン)が概念として解釈された結果なのか――[タクティクス・クロニクル]で言うところの【共通語】としてヘリアンの目に映っていた。記されている料金は安くはないが、そこまで高いわけでもない。


「そうですね。折角なので、利用させてもらおうかと」


 大銀貨を勘定台に置くと「お代は結構です」と返却された。宿泊料金の際と同じやり取りを繰り返す気は無かった為「では初回だけはお言葉に甘えます」と返事をして懐に治める。

 そうして時間枠の書かれた札を渡された。この札は浴場を使う際に所定の場所に挿して、利用中であることを示すようにするらしい。簡潔ながらしっかりとトラブル対策をした仕組みになっている。


 木造り特有の軋みを上げる階段を登り切ると、通路の奥に目的の部屋番号を見つけた。受け取った鍵で開錠し、取り敢えずは四人全員で一つ目の部屋に入る。


「……ふむ」


 少々手狭ではあるが、想像していたよりはまともな部屋だ。

 窓際に鎮座した二つのベッドはいずれも綺麗に整えられており、白いシーツからは清潔感を感じられた。最低限の調度品も備え付けられている。一介の旅商人が泊まる部屋としては、それなりに上等な部類に入るのだろう。


 ヘリアンは部屋に進み入り、おもむろにベッドに腰を下ろす。

 ようやく着いたという達成感と足腰に感じる疲労感から寝そべってしまいたくなったが、配下達の前であることを思い出してグッと堪えた。まだ気を抜いていい時間ではない。


 続いて防音用の結界を張るように思考操作でセレスに<指示(オーダー)>を――しようとして失敗した。疲労の為だろうか、思考操作を行う為の脳波精度が乱れているらしい。仕方がなく直接操作で改めて<指示(オーダー)>を飛ばす。


 すぐさま結界が展開され、この部屋は一時的に完全防音の密室となった。気を張りすぎかもしれないが念には念をの精神は大切だ。そうして会話が漏れる心配が消え失せた一室にて、ヘリアンは誰憚(だれはばか)ること無く声を発する。


「――よし。予定外の出来事(イベント)はあったものの、取り敢えずは街に無事到着したというわけだ。まずは此処までの道中、ご苦労だったと言っておこう」


 頭の中で“万魔の王”としてのスイッチを入れる。

 そして従者の前で足を組み、長年のロールプレイで鍛えた王様言動(モード)を意識しながら労いの言葉を口にした。


 リリファのように鮮やかな切り替え(オン・オフ)が出来るわけではないが、いつかはそう出来るようにならなければいけない身だ。こうした場で地道に実践経験を積み重ねるしか無いだろう。


「ハッ。有難きお言葉、恐れ入ります」


 ヘリアンの言動から、今この場にいる彼は王としてのヘリアンなのだと従者三人は正しく認識した。リーヴェを筆頭にザッとその場に跪き、一斉に頭を垂れる。


「よい、面を上げよ。では早速だが打ち合わせ(ブリーフィング)といこうか。議題は当面の活動内容に関する再確認と、ここまでで得た情報の共有化を図ることとする」


 大学で学んだ講義、プレゼンテーション理論の内容を思い返しながら切り出す。先ずは議題の提示と認識の摺合(すりあわ)せだ。加えて、これは討論の場ではなく情報共有の場であることを明示する。


「まずはこの街における活動について。謁見の間で話した通り、この世界に関する本格的調査の足がかりを得る為、我々遠征隊は国を出てこの街を目指した」


 従者三人は黙してヘリアンの言葉を拝聴する。


 ……失敗が許される偽装商人(ポジション)で交渉練習をしたい、という個人的な目的については伏せた。言う必要はないし、言えば威厳が失墜する。


「では、この街における我々の作戦目的は何か。リーヴェ、お前の認識を聞こう」

「ハッ。当面の重点目標としては三つ。それぞれ『転移門(テレポータル)の設置』『それを秘匿する活動拠点施設の入手』『この街が保有する戦力の調査』となります」


 淀み無く紡がれた答えにウムと頷く。

 議長が一方的に喋るのではなく、参加者にも発言を促すことで当事者意識を強調認識させ、当人らに答えを言わせることで意識付けの強化を行う。テクニックとも呼べぬ基本中の基本だが、基本以上の王道は無い。筈だ。


「次に、セレス。【転移門(テレポータル)】を設置するには一定割合の【支配力】が必要となるわけだが、その為に我々はどのような活動を行う?」

「基本的には若――陛下がこの地に及ぼす御力で【支配力】を獲得します」


 (プレイヤーユニット)が該当地域に滞在することによる時間経過ボーナスのことである。


 これについては既にアルキマイラの首都アガルタにおいて、この世界でも問題なく機能することを確認済みだ。

 時間経過ボーナスは二十四時間毎に判定が行われ、これによる支配力取得は<記録(ログ)>に出力される仕様になっている。試しに<記録(ログ)>を参照すれば、しっかりと【支配力】取得成功のテキストが表示されていた。


「あと、それと並行して経済や文化、現地人への影響力を得ることによって【支配力】が獲得出来るか実験を行います」

「具体的には?」

「はい。まずは旅商人に扮して商談を行い、経済へ影響を与えることでどの程度【支配力】を得られるのか、そもそも得ることが可能なのかを検証します。また将来的には旅商人から街商人に立場を変え、店舗という形で【転移門(テレポータル)】の秘匿施設を入手します」


 鷹揚(おうよう)に頷きを返す。

 転移門(テレポータル)を隠すだけなら普通の一軒家でも構わないが、転移を活用し始めると相当数の人員の出入りが発生する。それを考えれば店舗という形で偽装しておいたほうがなにかと都合がいい。


 ついでに街商人としての身分を確かなものにすれば、商人固有の情報網(ネットワーク)から様々な情報を仕入れられるのでは、という目論見もある。が、それは拠点化を整えてからでも遅くはないのでこの場では割愛する。


 しかしどうでもいいと言えばどうでもいいが、律儀に呼び方を変える辺りセレスも真面目だ。彼女の【人物特徴】には【捻くれ者】を代表とする少々めんどくさいものが幾つか含まれているのだが、今のところその傾向は見受けられない。もっとも、それが良いことなのか悪いことなのかは微妙に判別がつかないのだが。


「最後に、ガルディ。『この街が保有する戦力の調査』を行う狙いとは何だ? また、その具体的な活動内容について述べよ」

「へい。まず、狙いは俺様達(アルキマイラ)にとって脅威となるような実力者がいるかどうかの確認だな。ノーブルウッドは口ばっかで大したこと無かったが、それに勝った人間族の戦力については別途査定が必要と」


 いつも通り過ぎる口調に統括軍団長(リーヴェ)がギロリと視線を飛ばすも、当人はどこ吹く風だ。まあ今更である。コテコテの叩き上げである第五軍団長(ガルディ)はこういう配下(キャラ)なのだ。締めるべき場ではキチンと態度と口調を改めるので、ヘリアンはそれで良しとしている。


「んでもってこの都市は人類領域の中でも有数の軍事拠点で、そこへつい最近緊急召集された実力者……人類最高峰の遊撃戦力だとかいう『冒険者』の力量を図る、と」

「うむ。概ね合っている」


 要は、アルキマイラがこの世界に対して絶対的な軍事的アドバンテージを得られているかどうかの検証だ。ある程度予想はついているが、石橋を叩いて渡るぐらいの慎重さは最低限必要となる。


「出来れば正規戦力である境界騎士団の精鋭部隊、それにトップランクの冒険者の力量も図っておきたいところだが……今はどちらとも前線の城砦に詰めているらしいからな。これについては誤算だったが仕方がない。取り敢えず、当面はこの街に滞在している冒険者の力量を測るとしよう。大凡の平均値と上限値が割り出せればそれで良い」


 他に明確な脅威となりそうな筆頭候補として『魔族』や『魔王』等の物騒な存在がいるが、これについては本格的な調査を行う地盤が出来てからだ。まずは人類領域で活動するにあたっての脅威の有無。それを確かめることが肝要である。


「続いて、ここまでの道中で得た情報の共有化を行う。まずは人間との初接触を行ったわけだが、その所感から聞くとしようか。ここから先は各々発言を許可する。自由に申せ」

「所感、と申されますと?」

「なんでもいい。お前たちが人間と出会うのは、私や他国の王を別にすれば今日が初めてのことだったろう。実際に目にした人間たちをどう思ったのか。それを聞きたい」


 問いかけると、従者三人はちらりと視線を交わし合った。

 ややあって、リーヴェが口火を切る。


「実際に戦った所感としては想定を大きく下回る戦闘力でした。無論、油断なく迅速な殲滅を心がけはしましたが……有している筈の特殊能力を何ら発動させることなく全滅したというのは予想外の一言です」


 賊の一派との戦闘からの所感だ。

 まず戦闘力から述べるというのは如何にも魔物らしい感想だった。

 しかし、一つ気になる言葉が紛れ込んでいた。

 ヘリアンは眉を(ひそ)めて問う。


「特殊能力というのは何だ? 参照した<人物情報キャラクターステータス>……ああいや、私が知りうる限りの情報ではそのようなものは見当たらなかったが」

「いえ。実際に確認したわけではないのですが……その、出立前に我々三名にて人間族の能力考察をしておりまして。その中で得た結論に基づいて、種族として幾つかの能力を保有していると判断致しました」

「……ほぅ?」


 長時間会議室に籠もっていたのは知っていたが、その内容までは知らなかった。

 ラテストウッドを訪れてきた冒険者達を参考にしたのだろうか。


「も、勿論、ヘリアン様の能力を探ろうなどという意図は誓って御座いません。それはこの二人にも強く言い聞かせております。しかしながら未知の領域において御身の安全を確保するには、最も強大な力を有するであろう人間族について予め考察を巡らせておく必要があると考えました。恐れながら、ご理解頂ければと」

「ん? いや、勿論だ。理解しているとも」


 リーヴェは焦ったように言い募る。なにやらいつもより早口だ。

 不可解な反応に内心で首を捻ったが、ふと、配下達の抱くヘリアン像には秘密主義者の面があったことを思い出した。二度目の謁見の際に<仮想窓(ウィンドウ)>や<地図(マップ)>について彼らに説明し、驚かれた記憶が蘇る。


 ……いや、待て。それを踏まえて顧みれば、今の自分の言動は秘密を探ろうとした不届き者に釘を刺すソレでは無かっただろうか……?


「リーヴェ。重ねて言うが私は十分に理解している。――分かるな?」

「……ハッ、承知致しました!」


 リーヴェは視線を床に固定したまま声を張った。

 セレスとガルディもまた、追従して拝命の意を発する。


 ……うん。どうやら対応方法を間違えたらしい。完全に釘刺しと勘違いされている。


 だが、重ねて訂正するのもバツが悪いものがあった。

 仕方ないと割り切って話を進める。


「ゴホン。まあ、それはそれとしてだ。参考までにその考察とやらの結論を聞かせてもらおうか」


 跪く三人に対し、せめて認識の共有だけでも万全を期しておこうと促す。

 すると三人を代表したリーヴェの口から、軍団長達が抱いている“人間”像が語られ始め――それを聞き終えたヘリアンは思わず天を仰いだ。


 ――曰く、人間とは不老である。

 ――曰く、森羅万象を見通す千里眼を有している。

 ――曰く、(あまね)く存在にその意思を伝達する啓示の能力がある。

 ――曰く、無から有を生み出す創生の御業を生まれ持っている。


(……一体どんな化物種族だ)


 想像の遥か斜め上を行く内容であった。

 恐らくは王――[タクティクス・クロニクル]におけるプレイヤーキャラクターを参考にしての考察なのだろう。


 不老は、(プレイヤー)の外見がいつまでも変わらなかったことから。

 千里眼は、様々な情報を仮想窓(ウィンドウ)を通して参照することが出来たことから。

 そして遍く存在に意思を伝えるというのは配下の魔物達に出す<指示(オーダー)>のことであり、無から有を生み出す御業とやらは<永続召喚(ガチャ)>や<配下創生キャラクタークリエイト>で魔物を作っていたことからの推察に違いない。


「なるほどな……。道理で境界都市に入って以降、一言も喋らなかったわけだ」


 辺境伯の屋敷でも緊張感を纏っていた理由が良く分かった。

 要は会話を行う余裕すら無いほどに人間を警戒していたというわけだ。

 なにせリーヴェ達からすれば、摩訶不思議な化物種族がうじゃうじゃ生息しているような街である。彼女らの目にはこの街が人外魔境に映っていたに違いない。


「なんというか、言いたいことは色々あるが……取り敢えず人間はそこまでデタラメな種族ではない。基本的にはハーフエルフ達と似たようなものだ。個人に焦点を当てての話は別だが、種族としてそのような異能を有しているわけではない」

「そ、そうでしたか。いえ、我々としましてもそのような種族と戦争をしておいて何故ノーブルウッドが滅んでいないのかと不思議には思っていたのですが……」


 そりゃあ不思議にも思うだろう。

 ただでさえ数が自慢の人間だ。その一人一人がそのような異能を持っていたとすれば、他の種族は尽く駆逐されていてもおかしくない。


 特に『千里眼』やら『無からの創造』についてはもはや神の領域である。そんなトンデモ種族が居てたまるかという話だ。


「ではそうなりますと……それらの異能については全て、人間という種族に依存する能力ではなく、ヘリアン様個人が保有されている御力ということでしょうか?」

「…………まあ、そうなるな。その理解で構わん」


 崇敬の視線から目を逸しつつ肯定する。

 すると、小さくも確かな感嘆の吐息が耳に届いた。


 しかしながら、箱庭系ゲームのプレイヤーとしては当たり前の仕様(のうりょく)ばかりなので、そんな反応をされても困るのだ。

 実際のところ、自分が保有している能力のアレコレについて、いざ現実に置き換えれば有用なものが多いのは事実だろう。しかしそれらは全て借り物であり、自分が苦労して身につけたものではない。このような尊敬の感情を向けられても居心地の悪さが先にくる。


 誤魔化すように咳払いを一つして、話を進めた。


「人間に対する過剰警戒の原因については理解した。低く見積もって侮るよりはマシだが、過剰な警戒はトラブルの元になりかねん。この街の人間を観察し、予測と現実との溝を埋めるよう努めよ。――次に、この街に関する見解についてだ」




    +    +    +




 それから一時間ほどかけて、情報と認識の共有化について話を行った。

 中央区に妙な結界術式が敷設されているというセレスの報告があったが、展開されていない為か、その効果については看破出来なかったとのことだ。

 しかしながら辺境伯邸を中心にしているという点からして、恐らくは拠点防衛用の防護結界か何かだろうと推測する。首都結界こそ無かったものの、要所としてそれなりの備えはしているということだろう。

 他に特筆すべき報告も尽きてきたようなので、そろそろ切り上げるかと声を発した。


「では本日の打ち合わせはここまでとする。波乱の一日ではあったが、各自十分に英気を養ってくれ。以上だ」


 最後に今日一日の労をねぎらう言葉で締めくくり、三人を退出させた。

 しばらくして閉ざされた扉の向こう、それぞれの部屋に入ったであろう扉の開閉音が耳に届く。


 その後、ヘリアンは<通信仮想窓(チャットウィンドウ)>を開き、アルキマイラ本国のエルティナに繋いだ。毎日恒例の定時連絡だ。重大な問題は発生していないといういつも通りの回答を受け取り、幾つかのやり取りを経て通信を切る。


 そうしてようやく本日の責務から開放されたヘリアンは、ベッドに背中から倒れ込んだ。


「はあぁぁぁぁ……」


 全身を弛緩させて深い溜息。

 ようやく一人きりになれた空間で誰の目も(はばか)ること無く、だらしのない格好で天井を見上げる。


「……疲れた」


 弱音が口をついて出た。

 なにせここ数日間、一人きりの時間を碌に持てなかったのだ。

 道中は配下である従者三人と常に一緒の時間を過ごしており、商人もどきの旅人を演じているという設定であることを差し引いてもそれなりの態度を取る必要があった為、完全に気を抜くことは出来なかった。


 加えて、今日は激動の一日だった。

 地道に活動を始める筈だった当初予定とは大きく異なり、人間との初接触(ファーストコンタクト)は野盗との遭遇戦と相成った。

 助け出した黒髪の少女はプレイヤーでないどころか領主の娘であり、街につくなり領主本人からの奇襲を受け、その挙げ句なし崩し的に領主邸宅で街の支配者と面会する羽目になった。


 目立たぬよう静かなスタートを切るはずだった境界都市到着初日。それがこのように波乱の一日となろうとは予想外の一言に尽きる。


「いきなり前途多難だな……こんなんでやっていけるのか、俺」


 旅の疲れか、はたまた精神的な疲労の為か、身体が鉛のように重い。

 まだ街についたばかりだというのにこの体たらくだ。

 こんな調子で本当にやっていけるのかとの不安が首をもたげる。


「――何を弱気な。やっていけるかじゃない。やらなきゃいけないんだ。俺が、自分の力で、どうにかしなくちゃいけないんだ」


 叱咤する一言と共に、腕に反動をつけて身を起こす。


 そうだ。俺の代わりは誰もいない。

 愚痴ったところで助けてくれる相手なんていやしない。

 ここにはレイファのように愚痴を聞いてくれる相談相手も、リリファのように気晴らしに付き合ってくれる誰かの姿も無いのだ。


 であるからには、自分の心身は自分で面倒を見なければならない。

 辛くとも意地を張らなければならない。

 配下達の前では自信満々に振る舞わなければならない。

 見慣れぬ異国の地で独りだろうと、何もかも全て自分で判断しなければならないのだ。


 しっかりしろと己に強く言い聞かせ、ベッドから立ち上がる。


「……ん?」


 弾みで棒状の何かが床に落ちた。

 はてと首を傾げて拾い上げれば、受付で渡された浴場利用の木札だった。


「ああ。そういえば風呂があるんだったか」


 使用する時間帯が明記されているという札には、二つの数字が線で結ばれるようにして記されていた。受付の説明によれば、これは六の刻――つまりは六時から七時までの時間帯を指すらしい。


 ちなみに、[タクティカル・クロニクル]の一日は地球と同じ二十四時間表記だ。時間の呼称は独自のものだが、共通語として自動翻訳される為、問題なく意味が通じる。

 また暦も同様に十二ヶ月で一年という刻み方がされているのだが、一ヶ月あたりの所要日数が微妙に異なる。[タクティカル・クロニクル]では一ヶ月辺りの日数が三十日で固定されているのに対し、ここでは月々によって微妙に月末日が前後するのだ。一年間の所要日数換算ではほぼ同じである。


 丁度その折、窓の外から時間を告げる鐘の音が運ばれてきた。<仮想窓(ウィンドウ)>で時刻を確認すれば、これから六時を迎えようとする時間帯だった。


「……行ってみるか」


 正直なところ、浴場があるというのはありがたい。

 この世界では一般家庭に風呂場というものは普及しておらず、自宅に入浴設備を有しているのは貴族や富豪ばかりだと聞く。一般人は桶に貯めたお湯で身体を拭うのが常であり、また宿屋でも入浴施設を有しているのは一部だけらしい。

 その事前情報から今日の湯浴みについては諦めていたのだが、この宿に入浴施設があるというのは嬉しい誤算だった。ちょっとした気分転換になれば幸いである。


 そうと決まれば善は急げ。ガルディが運び込んでくれていた荷物から着替え一式と手拭いを取り出し、いざ行かんと自室の扉を開く。


 ――きっかり二秒後、向かいの扉が開け放たれた。


「お出掛けでしょうか?」


 開いた扉の先にはリーヴェが居た。

 まるでずっと扉前で待機していたかのようなタイミングだった。

 完全な不意打ちに、一瞬言葉を失う。


「……い、いや、外には行かん。この宿には風呂があると聞いたのでな。汗を流そうかと思っただけだ」

「承知致しました。少々お待ち下さい」


 言うなり、リーヴェはすぐさま部屋に引っ込み、それから四十秒と経たない内に再び姿を現した。その左手には浴巾(バスタオル)などの入浴装備一式が抱えられている。


「…………」


 どうやら一緒に風呂場まで行くつもりらしい。

 護衛役とは言え、風呂場までの距離でさえ付かず離れずというのは正直疲れる。が、ここでリーヴェ説得の為に要する気力と気分転換という目的を秤にかければ沈黙を選ぶのが吉だろう。


 曖昧な頷きを返し、リーヴェを伴って風呂場に向かう。

 一階に降りれば、受付の奥にある食堂スペースから賑やかな声が聞こえてきた。どうやら酒の入った宿泊客が騒いでいるらしい。この街の食事には興味があったが今の目的は風呂だ。受付の男に場所を聞き、賑やかな声を背に浴場へと向かう。


 そうして辿り着いたこの宿自慢の浴場には、扉の前に札を差し込む口が用意されていた。既に自分達が予約した時間帯に突入した為か、そこには何も差し込まれていない。今は誰も使っていないということだろう。これで宿泊客同士の鉢合わせを避ける仕組みだ。


「……む」


 しかしながら、男湯と女湯を分ける暖簾(のれん)が見当たらなかった。

 いや、どう見ても西洋文化なので暖簾というのは不適切かもしれないが……兎にも角にも入り口が一つしかない。

 怪訝に思いながら中を覗く。そこには脱衣場と、奥には風呂に続いているのであろう扉が在った。しかしやはりというべきか、浴場はここ一箇所しかないようだ。


「どうやら男女兼用らしいな」


 まあ仕方がない。当然のように男女それぞれで別れているとばかり思い込んでいたが、此処では浴場付きの宿の方が少ないのだ。一つでも浴場があるだけで恩の字だと考えよう。


 レディーファーストの精神で先にリーヴェへ譲ろうかと思ったが、自分の立場を思い出して踏みとどまった。

 自分は彼女の上位者だ。であるならば、ここで部下である彼女に譲るのは上位者の振る舞いとしては不適切だろう。それにリーヴェの気質を思えば、上位者を差し置いての入浴など心が休まらないだろうことは想像に難くない。となれば、ここは自分が先に浴場を使わせてもらい、さっさと上がって速やかに順番を渡すべきか。


「リーヴェ、見ての通りだ。すまないが――」

「ハッ。お伴させていただきます」

「――うん?」


 リーヴェが意味不明な台詞を口にした。

 お伴?


「…………お伴、とは何だ?」

「はい。僭越ながら、ご入浴の介添をさせて頂こうかと」


 …………いや。

 いやいやいやいやいや。


「リーヴェ。見ての通り私は男だ。そしてお前は女だ。分かるな?」

「承知しております」

「で、あればだ。入浴の介添などという行為には極めて重大で致命的な倫理上の問題が生じる。これについても分かるな?」


 順を追って訊いたが、何故か二つ目の問いには「……は?」と疑問を返されてしまった。


 ……いや、何故疑問に思うんだ。自明の理だろう。俺は男でリーヴェは女で浴室は一つしかないんだ。なのになんで当然のように一緒に入ろうとする。というか、介添って何だ。一体何をしようというのか。


「とにかくだ。私は一人で風呂に入る。供は不要だ」

「……しかし」


 しかしも何もないだろう。これは有り得ない。はっきりと無理だ。一緒に入るとかどう考えても絶対有り得ない。


「ゆるりと湯に浸かりながらしばし思索に耽りたいのだ。余人の目があっては思考の妨げになる」

「では、終始瞳を閉じております。私の存在は無きものとして扱っていただければと」


 言われ、その光景を想像してみた。

 一秒で却下する。

 どんな羞恥プレイだ。


「そういう問題ではない。何故分からん」

「ですが、御身の守護をする為には可能な限り同一空間に居る方が望ましく……」

「屋外ならばまだしも、ここでは護衛は不要だ。そもそも誰が襲ってくるというのだ。宿内部でまで厳重に警備し続けるなど、一介の行商人に対する護衛としては過剰演出であろう。悪目立ちが過ぎる」

「……ではせめて、浴室前の脱衣場での待機をお許し頂きたく」


 扉一つ隔てた先に、リーヴェという美人を待たせての入浴。

 ……駄目だ。とても寛げるとは思えない。神経を張り詰めての入浴タイムとなること間違いなしだ。少なくとも気分転換になどならない。


「不許可だ。護衛ならばここからでも十分だろう。唯一の出入り口であるここを抑えておけば私の身に危険は無い」

「……ハッ。承知致しました」


 拝命の言葉と共に頭を下げるリーヴェを背にして、脱衣場の扉を閉める。

 心配性にも程があるだろうとこっそり嘆息しながら、ヘリアンはシャツに手をかけた。




    +    +    +




 ――その数時間前。

 境界都市シールズが異邦人を迎え入れた時と同じくして、迷宮(ダンジョン)と呼ばれるその場所で蠢いたものがあった。


 身体は錆びついていた。

 身じろぎすら覚束ない躯体が軋みをあげる。

 獣が如き呼気を吐き出すだけで精一杯な有様だった。

 溜めに溜めた長年の負債が呪縛となって巻き付いている。


 しかし、それも時間が解決するだろう。

 ソレは数日と経たずして本来在るべき動作を取り戻し、身を起こすことを選ぶのだ。


 時は近い。

 深い闇の中、ソレはいずれ訪れるであろうその時を静かに待ち続けた。




・次話の投稿予定日は【11月24日(土)】です。

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