第十二話 「黒髪」
トン、と軽い音を立ててヘリアンはセレスと共に平野に降り立つ。
助け出した少女に歩み寄って見れば、セレスの言っていた通り人間の少女だった。
耳は短く、尻尾も無く、角や鱗も勿論無い。どこからどう見ても“人間”だ。
セレスが子供と言っていたのでもう少し幼いかと思っていたが、外見年齢的には十五歳を超えてそうに見受けられる。
服は汚れ、胸元の生地は無残にも破られているものの、大した怪我は負っていないようだ。その事実に思わず安堵の吐息を零す。
「……無事で何よりだ。間に合って本当に良かった」
襲われていた少女を助けられた。
その事実を想えば、自然と柔らかな声を出すことが出来た。
声に合わせて微笑みを浮かべる。下手クソな表情だったかもしれないけれど、それでも一応は微笑みらしき表情を作れたと思う。
少女は随分と良い身なりをしていた。
動きやすそうな格好をしているが、ラテストウッドの民が身につけていたそれと比べ、生地の品質からして違う。大した審美眼も無いヘリアンですらそれが分かった程だ。明らかに服飾としての格が違う。
「先程は咄嗟のこととはいえ、怒鳴りつけてしまってすまなかった。謝罪する」
ヘリアンは被っていたフードをめくり上げ、続く言葉を口にした。
余裕が無い状況ではあったものの、厳しい口調で怒鳴りつけたのは事実だ。助けた恩があるとはいえ、波風立て無い為には無礼を詫びるべきだろう。
そのような想いから頭を下げようとしたのだが、当の少女は驚愕の表情を浮かべていた。
……謝罪したことがそこまで意外だったのだろうか。
その反応の意味が分からず当惑していると、少女は何事かをボソボソと呟いた。
胸元に寄せていた筈の腕はいつの間にかダランと垂れ下がり、遮るものの無くなった瑞々しい肌が生地の裂け目からチラチラと見えている。
……非常に気まずい。
起伏のある肌色から眼を逸らしつつ、ヘリアンは外套を脱いで少女に歩み寄った。このまま平然と会話を続ける度胸はない。
「あー……ところで、その、なんだ……貴女のその恰好は、いささか目に毒だな」
直接的に言うのも
しかし、少女は呆然としたままひたすらに自分を注視していた。なにか失礼なことをしてしまっただろうかと思いながら更に一歩踏み込み、その細い肩に外套をかける。
「――貴方のお名前を教えていただけますか?」
唐突に、少女が問い掛けてきた。
真っ先に問うのが名前なのかと意外に思いつつ、ヘリアンは己の名を口にする。
「ヘリアンだ」
外套の前留を結んで少女の胸を隠す。
そうすることでようやく一息ついたヘリアンは、改めて少女の容姿を観察した。
有り体に言って、可愛い少女だと言えよう。
目鼻立ちはしっかりしており、どこかおっとりとした顔立ちをしている。綺麗に切り揃えられた前髪から覗く大きな瞳が印象的だ。数年も経たぬ内にお淑やかな美人に育ちそうな、そんな女の子だった。
しかし、彼女の最大の特徴は顔立ちでも、服装でも、瞳でも無い。
最も目を惹くのは、大きな瞳を隠すその髪。正確にはその色。
それはこの世界では稀有とされる色だった。
セレスからの報告通り、決して見逃せない色をしていた。
まるで墨を通したような艶のある髪色だった。
「失礼だが、君の名は?」
「……シオン、です」
未だ呆然自失とした様子の少女が、半ば条件反射で自らの名を口にする。
シオン。
聞き覚えはない。
しかし、自分を見た時の反応がどうしても気になった。
だからヘリアンは彼女に――
「君は――プレイヤーか?」
+ + +
ヘリアンは初めてレイファと出会った時の会話を思い出す。
人間という種族における黒髪は、とても稀有だとレイファは言っていた。
少なくともラテストウッドを訪れる冒険者の中には、黒髪の人間は居なかったと聞く。
そこへ現れた黒髪の人間だ。
この世界で初めて出会った人間が、自分と同じ黒い髪をしていた。
助け出した人間は――シオンは
偶然とは思えない。偶然とは思いたくなかった。ゲーム[タクティクス・クロニクル]では男性プレイヤーの方が多かったが、女性プレイヤーが居なかったわけでは無い。
そして【ヘリアン】というプレイヤーネームは[タクティクス・クロニクル]では名が売れている。なにせ一つの世界の覇者だ。その外見を知っているプレイヤーだってそこそこの数はいただろう。目の前の少女がその内の一人なら、彼女の反応にも納得がいく。だからこそ名前を真っ先に訊いてきたのかもしれない。
だからもしかしたら、と。
彼女は自分と同じ異世界転移者なのではないかと。
そんな一縷の望みを篭めて、ヘリアンは黒髪の少女に問い掛けた。
――しかし。
「ぷれいやー……?」
黒髪の少女はオウム返しに、その言葉を口にした。
まるでその単語を初めて耳にしたかのような反応だった。
(…………あぁ)
それで悟った。
悟ってしまった。
彼女の反応は素のものだ。
演技をしている様子は無い。
ヘリアンでさえ、それが理解出来てしまった。
故に、
「……ぷれいやーとは、何でしょうか?」
彼女の口から期待を裏切るその問いが出てきても。
ヘリアンはさしたるショックを受けずに済んだ。
落胆は、既に終えていた。
「いや……気にしないでくれ。こっちの勘違いだったらしい」
改めて微笑みかける。
彼女には何の罪も無いのだから、例え質問に対する回答が自分の望んだものではなかったからとはいえ、落胆の表情を見せていい筈が無いだろう。
それに、何も無駄骨に終わったわけじゃない。
少なくとも目の前の少女を助け出すことが出来た。
自分が命じたことにより、一人の人間の命を確かに救えたのだ。
なら、それでいい。
それでいいんだ。
「突然わけの分からない質問をしてすまなかった。とにかく、もう大丈夫だ。俺達が責任を持って君を家まで送り届ける。安心してくれ。――リーヴェ、セレス。彼女の服を頼む」
「承知致しました。――セレス、悪いがお前の上着を貸してくれ」
「いいけど……アタシのじゃサイズが全然合わないわよ? この子」
「とりあえずの間に合わせで構わん。応急処置だけここで済ます」
リーヴェとセレスが言葉を交わしながら近づくが、未だに少女は茫洋とした表情をしていた。賊に襲われ、乱暴されかけたショックからだろうか。何にせよ落ち着いて話をする為には時間が要る。
そう判断したヘリアンは、黙って女性陣に背を向けた。
そしてあえて今まで視界に入れないようにしていたソレらに――賊達の成れの果てに対し、相対する。
「…………」
後悔は無い。
これはヘリアンが望んだ結果だ。
ヘリアンが望んだ通りにセレスが射って、ヘリアンが望んだ通りにリーヴェが少女を救い出した。
賊達が荒野に屍を晒すことになったのはその結果でしかない。
「……だけど、それでも……死ねば仏だ」
――だから。
だから今回だけは。
こうして、死者に手を合わせることを許して欲しい――。
+ + +
その姿を、黒髪の少女は見ていた。
真剣な表情で賊の亡骸と相対する、黒髪黒眼の青年を見つめていた。
そうして思い出すのは、母から繰り返し聞かされていたとある物語。
ガーディナー家の使命にも関わる、とても大事な物語だ。
青年を見た時、最初は見間違いか何かだろうと思った。
次に、夢幻の類ではないかと錯覚した。
しかし、何度目を瞬こうとも目の前の青年は消えてなくならない。
信じられないという想いを抱きながらも、少女はこれが夢幻ではないことを自覚する。
そして茫洋とした表情のまま、少女は――ガーディナー辺境伯の娘である彼女は、その小さな唇から呟きを零した。
「――アラヒト様」
囁きは小さく。
荒野の風に攫われて消えた。