第六話 「とある酒場での邂逅」
――ひどい目にあった。
昨日の午後の出来事を思い浮かべながら、ヘリアンは深いため息を吐く。
なんとかリーヴェの誤解は解いたが、あの出来事はもう思い出したくない。一刻も早く記憶から消去したい。そうでもしないと気まずくてリーヴェの顔を見れそうになかった。
多分、気まずさに関してはリーヴェとしても同じことだろう。表情こそいつも通りの澄まし顔だったものの、その頬には微妙に朱色が残っていた。更には尻尾が挙動不審な動きをしていた。ついでに耳もだ。
……嫌な事件だった。
そう切り捨てる他あるまい。
「随分とお疲れのようですね、オーナー」
カウンター奥のゴブリンが気遣わしげに声をかけてきた。
彼はこの酒場――『始まりの地の酒場』の店長であり、同時に初めて仲間にした野良魔物でもあるゴブ太郎だ。
ヘリアンは今、
「疲れたというかなんというか……言葉というものは難しいものだと思ってな」
力の無い笑みでそう返すが、ゴブ太郎は頭の上に疑問符を浮かべていた。
ちなみに、彼の言葉遣い等については、通常の客に接する際と同様にするように頼んでおいた。
なんというか、毎度毎度大袈裟な歓待をされても困る。
あの日の一件以来この店に来るのは初めてだったが、制服を着込んだゴブ太郎に最敬礼の角度でお辞儀をされた際には何処のホテルマンかと困惑してしまったくらいだ。
思い入れのある場所だからこそ、気楽に振る舞いたいという気持ちがある。
「なにやら厄介事でもおありで?」
「いや、厄介事というほどのものではない。それにもう終わったことだ。忘れることにした。それがお互いのためなんだろう、きっと」
「はぁ……。なら、酒を呑まれていかれやすか? 忘れたいことがあるなら、呑んで忘れるってのも一つの手でさぁ」
いかにも酒場の
「折角だが遠慮しておこう。知っての通り、この後は大事な客と話さねばならんのだ。アルコールで頭を鈍らせるわけにはいかん」
話しながら、ヘリアンはカウンターに置いてある
起動には魔力が必要なので、ゴブ太郎に使用してもらった。今現在はゴブ太郎とヘリアンの二人だけが隠蔽の対象になっており、他の一般客には、ヘリアン達が此処にいることすら認識されていない状態だ。例の客が来たら術式の対象に追加して、擬似的な密室状態を作り出す手筈になっている。
なにせ、これから行う事は言うなれば密会だ。
他人に聞かれて良いものではないが、かといって城で行うわけにもいかないという事情がある。
「ところで、例の客はまだか?」
「んー、そろそろですかねえ。三十分ほど前に先触れ……ってのも妙な表現ですが、もうじき到着するってな伝言を承りましたもんで」
「そうか」
例の客というのは、ラテストウッドからの使節団一行のことだ。
前回同様に非公式訪問ということになっているが、今回は先方の事情を考慮して、完全なお忍びという形を取っている。
ちなみに、ゴブ太郎は極秘訪問客と城とを繋ぐ特殊任務に就いている連絡員であり、酒場のマスターをしているのはその一環である――という設定で先方に伝えておいた。
ラテストウッドの一行は、秘密裏に会談を行う為の前準備として、城からの伝言を受け取る為にこの酒場を訪れることになっている。
お忍びで訪ねて来た
少しばかり姑息な手段だとは思うが仕方がない。
自分の正体を隠したまま
「お前には面倒な役を押し付けてしまうが、他に適任者が居なかったものでな。余計な手間をかけさせて悪いがよろしく頼む」
「いえいえ、とんでもねえです。こんな事でオーナーのお役に立てるってんなら、喜んでお役目を務めさせて頂きやす」
「助かる。あぁそれと、私は先方と話す際にはただの一般人を装うことになっている。私としても慣れぬ演技をする羽目になるが、今後の布石の為に必要な行いだ。例の客がいる間は、オマエもそのつもりで私に接してくれ」
「了解致しやした――っと、噂をすればなんとやら。おいでになったようでさ」
ゴブ太郎の言葉を受け、ヘリアンは店の入口に振り向いた。
立て付けの悪い扉がギギギと軋みをあげる。
薄暗い店内に足を踏み入れたのは一人のハーフエルフだった。どうやら従者達は表で待たせているらしい。ハーフエルフの少女は店の入り口近くに立ったまま、誰かを探すように店内を見渡す。
事前の打ち合わせ通りにゴブ太郎が魔導具を操作し、隠蔽術式の対象から自身を除外した。直後、少女の視線がゴブ太郎を捉える。少女は迷いの無い足取りで、ゴブ太郎の下へ真っ直ぐに歩みを進めた。
(――懐かしいな)
あれから一週間程度しか経っていない。
しかし、ヘリアンは少女の姿を見て感慨深げに頷いた。
フードを目深に被っていようと彼女を見紛う筈もない。
彼女こそ、ヘリアンが待ち望んでいた大切な客――レイファだ。
「お久しぶりです、店長さん。例の件でここに来るように言われているのですが」
「お久しぶりでさぁお客人。城からの伝言、確かに承っておりやす」
「それでは早速――」
「まあまあ、そう急かさずに。ここまで慣れぬ道でお疲れでしょう。取り敢えずお食事でも如何ですかい? 話はその後にでもゆっくりさせて頂きやすので」
「食事、ですか……」
少々戸惑ったように、レイファは言い淀む。
「おんや。ひょっとすると、もう既にお済ましで?」
「はい。実は道中で簡単に済ませて……あぁ、いえ、折角なのでやはり食事を摂らせて頂こうと思います。えぇと、メニュー表……は無いんでしたね」
メニュー表を探そうとしたレイファが苦笑を浮かべる。
ヘリアンも不便だとは思うのだが、ゴブ太郎から『長年守り続けた伝統』とまで言われてしまったからには新たにメニュー表を用意させるわけにもいかなかったのである。これも自縄自縛と言うのだろうか。
「それじゃ、前と同じコカトリスの天ぷらをお出ししやしょうか? ちゃんと軽食サイズに調整致しやすぜ」
「お気遣いありがとうございます。ですが、出来れば他の名物料理を頂ければと」
「おんや? 以前は天ぷらを美味しく召し上がってもらえたと記憶していやしたが……お口に合わなかったですかね?」
「いいえ、そんなことはありません。大変美味でした。それだけに大変魅力的なご提案なのですが、今回は別の料理を出して頂ければ幸いです。少しでもこの国の文化に触れられれば、と思いまして」
横で聞いていたヘリアンは思わず感心してしまった。
食事一つ取っても自身の好みで決めるのではなく、指導者の立場として選ぶというのだ。苦手な料理が出てくる可能性とて十分有り得るだろうに、一切の躊躇なく「名物料理を」とだけ注文するその姿勢。
(見習わないといけないな)
やはり勉強になる。
そしてこれだ。これなのだ。
こういった指導者としての心構えなどを、レイファから学び取りたいのだ。
あの日、この酒場で聞いた彼女の話はとても参考になった。
心が折れかけていた自分を救ってくれたばかりか、“王としての在るべき姿”をも教えてくれた。目指すべき理想を教え諭されたといっても過言ではない。
だからこそ、これからも彼女から“そういったもの”を学んでいきたいという気持ちをヘリアンは抱いていた。王族として参考にできる人物が、現状はレイファしか居ないのである。
しかし、“ヘリアン”とレイファの関係性は既に確立されてしまっている。
片や宗主国の国王で、片や属国の女王だ。
絶対的な上下関係が明確化されてしまっている以上、ヘリアンとしては王の仮面を被った状態でしかレイファと会話出来ないという現実がある。ましてや王の心得に関する会話など出来るわけも無い。だが、
(“ヘリアンではない誰か”としてなら話は別だ)
更に言うならば、あの日彼女に救われた男としてなら――この酒場でたまたま出会っただけの青年としてならば、レイファと新たな関係性を築くことが可能だ。一人の人間として、レイファと接する事が出来るようになる。
いきなり馬鹿正直に
これはその第一歩目であり、きっかけ作りだ。
多忙な身であるにも拘らずわざわざ向こうから、しかもお忍びでアルキマイラを訪れてきてくれたのだ。そのおかげでレイファを『
(そうだ。こんな絶好の機会、今度いつ巡ってくるか分かったもんじゃない。絶対に知り合いになってみせる……!)
ヘリアンは人知れず決意を固める。
客観視してしまえば『酒場で出会った女性と交友関係を築く』というナンパ同然の行為なのだが、本人は真剣そのものだった。
「別の名物料理となりやすと、そうですねぇ……。失礼ですが、お客人は豚系の肉はいけますかい?」
「はい、問題ありません。あ、生肉だとちょっと困るのですが」
「ご心配なく。ちゃんと火を通す料理でさあ。それじゃ腕によりをかけて作らせていただきやすので、そこの席で少々お待ちくだせえ」
ゴブ太郎はさり気なくヘリアンの隣席を勧める。
そして厨房の奥へ立ち去る間際に魔導具の設定を変更し、自分自身とレイファを効果対象に追加していった。
これにより、レイファは隣の席に座っている人物を――一般客から姿を隠している
「すみません、お隣よろしいでしょうか?」
「――あぁ。構わない」
なるべく気負わない口調で答えるのには苦心した。
灰のローブで身を覆ったヘリアンは、柔らかな声色を意識しながら一つ深呼吸をする。
そして、ゴブ太郎が厨房の奥へ姿を消したのを見届けた後、覚悟を決めてレイファに話しかけた。
「やあ、久しぶりだな。また会えるとは思わなかった」
我ながら白々しいとは思いつつ、あらかじめ準備していた台詞を口にする。
しかし、
「――? あの、私でしょうか?」
レイファは不思議そうに周囲を見渡してから、もしかしてというような表情を浮かべて答えた。
「…………え?」
「失礼ですが、何処かでお会いしたことがあったでしょうか? 貴方とは初対面だったかと思われるのですが」
――愕然とした。
まさか、忘れられてしまったのだろうか。
あの日あの時この場所で、彼女によって救われた一人の男のことを。
「ま、待ってくれ。俺が分からないか? あの日、君と話したあの男だ」
口にしてから、これではまるで下手なナンパだと顔を顰めた。
だが名前すら名乗っていなかったことを思い出す。いや、自分が“ヘリアン”だということを明かしてしまってはあの日のような関係を続けることは不可能なのだが、あの日の男だと説明するにあたってもどかしさを覚える。
仮名かなにかでも名乗っておくべきだったか。
「あの日……とおっしゃいますと?」
レイファは困惑したように眉を顰める。
聡明な彼女ならこの辺りで気づいてくれるだろうに、との疑問を抱いたところで、ヘリアンは身に纏っている『灰のローブ』の効果を改めて思い出した。
このローブは『お忍びプレイ』をする為に運営が用意した専用装備だ。
着ている者の印象を薄め、見る者の意識を逸らし、ただの
そしてレイファは恐らく、このローブの欺瞞術式にまるで抵抗出来ていない。目の前に居る自分を『ローブを纏った初対面の男』としか認識できていないのだ。
だが、ゴブ太郎を相手にした時のように自分の正体を明かすわけにはいかない。
あくまで、“あの時の男”であると『誤認』してもらわなければいけない。
正体を完全看破されるのも駄目、完全隠蔽するのも駄目となれば、ローブの欺瞞術式を中途半端に突破してもらわなければいけないということになる。
(……仕方がない)
ヘリアンは、ローブの欺瞞術式の
設定を下げすぎた場合、高い魔術抵抗力を持つ配下には正体を看破される恐れがあるが、今現在はローブとは別に魔導具も起動しているので一般客にバレる心配は無い。レイファの反応だけを気にしながら、慎重にローブの設定を下げていく。
すると、下限設定近くまで落とした辺りでようやく、レイファが何かに気づいたように表情を変えた。
「……あっ。もしかして、以前この酒場でお話をした……」
「そ、そうだっ、その男だ。それで合ってる!」
若干必死さが透けて出てしまったが、致し方ない。
今は兎にも角にも、自分が“あの時の男”だと認識してもらうことが第一だ。
「お久しぶりですね。すぐに気付けずに申し訳ありません。人の顔を覚えるのは得意な筈なのですが、何故かなかなか思い出すことが出来なくて……」
不思議そうに首を傾げるレイファに、「よくあることだから気にしないでくれ」とだけ伝えた。なんとか思い出してもらうことに成功し、ヘリアンはホッと胸を撫で下ろす。いきなり計画が頓挫するところだった。
「それにしても奇遇ですね。また同じ場所でお会い出来るなんて」
「……ああ、全くだ」
レイファは柔らかな表情を浮かべて、そんな台詞を口にする。
「実は君に会う為にここに来たんだ」などと返すわけにもいかないヘリアンは、同意の言葉を述べるに留めた。
「そういえば、まだ名前を名乗っていませんでしたね。私は――」
「――ちょっと待ってくれ。ここでは仮名で名乗りあうことにしないか?」
「えっ?」
虚を突かれたように、レイファは瞳を
「いや、別に後ろめたいことがあるわけじゃないんだが、ちょっとした事情があってな。ここではお互いに
名前が無ければ不便だが、本名を名乗れないというジレンマがある。
だからこその渾名呼びの提案だ。
「仮の名前、ですか」
レイファはしばし考える素振りを見せる。
そして何かを思いついたように表情を変えて、隣席の男に返答した。
「そうですね、私は構いませんよ。丁度良いといえば丁度良いですし」
少々怪しげな提案だったが、幸いにもレイファは乗っかってくれた。
お忍びでアルキマイラを訪れているという事情も手伝ってか、彼女としても都合の良い提案だと受け取ってもらえたのかもしれない。
「では私の名前は……そうですね、レイナということにします。私はレイナです」
そう言って、レイファ改めレイナはそう名乗った。
たった一文字変えただけだが、ちゃんとした名前になっている。
綺麗な響きの良い名だ。
確か大学で読んだ本で、仮名を名乗る際には下手に凝らずに本名をもじったものにした方が良いと書いてあった気がする。なんでも、本名と違い過ぎる名前だと、いざ呼ばれた際に反応しづらく不自然な振る舞いになってしまうらしい。
それを知っているわけでもないのに、咄嗟に思い浮かべた名前が『レイナ』であるあたり、さすがはレイファだと思う。
ちなみにその本が置いてあったのは教授の研究室なのだが、何故そんな怪しげな本が置かれていたのかは詳しく考えないことにしておいた。
世の中には知っていいことと知らなくていいことがある。
これについてはきっと後者だ。
「じゃあ俺は……………………悪い、ちょっと待ってくれ」
……どうしよう。
咄嗟に提案したはいいものの、肝心の名乗るべき仮名を決めていなかった。
彼女に
さてどうしたものかと考え込んでいると、その様子を見ていたレイファがくすりと微笑を浮かべた。
「ご自分から提案されたのに考えてなかったんですか?」
微かにからかうような響きの問い掛け。
女王としての仮面をつけている時とは異なる、年相応なその表情。
それを受けて、自分の頬が熱を持ったのをヘリアンは自覚した。
思春期の
「……う、うるさいな。今考えてるから、ちょっとだけ待ってくれ」
照れ隠しの悪態を吐きながら、しばし思案に耽る。
集中して考え込んでいると、仮の名に相応しい名前を思い出した。
「グリームニル……そうだ、俺の名前はグリームニルだ」
少しばかり長ったらしい気がしなくもないが、正体を隠すならばこの名前が相応しい。[タクティクス・クロニクル]では複数アカウントを持つことは出来ないが、もしもセカンドキャラクターを作ることが許されていたのなら『グリームニル』と名付けていたであろう、そういう名だ。
「グリームニルさん、ですか」
「ああ。ちょっと長くて呼びにくいだろうから、『グリム』とでも呼んでくれ」
「……えぇと。それなら最初からグリムさんで良いのでは?」
「いや、名前としてはグリームニルということで頼む。ちょっとした拘りみたいなものなんだが……まあ、なんだ、単に俺が凝り性なだけだと思ってくれ。特に意味は無いんだ」
本当に大した意味は無い。
ただ、ネーミングについては昔から拘りがあるだけのことだ。
「ところで、君は確かラテストウッドの人だったよな。今ここに居るということは商売か何かにでも来たのか?」
実のところ訪問理由は既に知っているのだが、会話を取っ掛かりを掴む為、素知らぬ顔でヘリアンは尋ねた。
すると、
「いえ、そういうわけではないんです。不肖の妹がこの国のさる方にとんでもない無礼を働いたので――そのお詫びに」
呟くレイファの表情に影が差す――どころか、重苦しいオーラが全身から漂い始めた。気圧されたかのように、ヘリアンは僅かに身を引く。
「そ、そうか」
「ええ、そうなんです。前々から突拍子もないことを仕出かす妹ではあったのですが、最近は特に酷く……本当にあの子は、どうしてあんな子に……!」
レイファはプルプルと身体を震わせ始めた。
まるで堪え切れないものを身の内に封じ込めているかのようだ。噴火する寸前の火山にも似た危うさを感じる。
どうやら思った以上に、色々なものを溜め込んでいるらしい。
「……なんだか大変そうだな」
「えぇ、大変なのです。立場上、大変なのはいつものことではあるのですが、今回の件に限ってはもう本当に。よりにもよってあの方に対し、なんて無礼な真似を……ッ!!」
「……ま、まあ、お茶でも呑んで落ち着こうじゃないか」
ヘリアンは<
程なくして、二人分の飲み物がカウンターに置かれた。
温かい紅茶を口にして少し落ち着いたのか、レイファはふぅと吐息を零す。
「――失礼致しました。少々取り乱してしまいまして」
「気にしないでくれ。立場的に大変ってのは、少しは気持ちが分かるつもりだ」
「と言うと、グリムさんも人の上に立つようなお仕事をされているのですか?」
「…………まあ、一応は」
「そうだったんですか。前にも少しお話したことですが、実は私も指導者の端くれでして。思わぬ共通点ですね」
「……そうだな」
若干の気まずさを覚えながらもヘリアンは首肯する。
そして会話が落ち着いたのを見計らい、ヘリアンは意を決したかのようにレイファに言葉を投げかけた。
「それはそうと、以前は色々と話を聞いてくれてありがとう。君が励ましてくれたおかげで、今もどうにか頑張れている」
あの日以来、ずっとレイファに御礼を言いたかった。
しかし公人の立場ではそれを口にすることは許されなかった。
ようやく彼女に御礼を述べることが出来たヘリアンは、胸のつかえが下りたような感覚を覚える。
「どういたしまして。私などの言葉でお役に立てたようであれば嬉しいです」
「役に立ったどころじゃない。心から感謝している。本当に」
「大したことはしていないと思うのですが……」
謙遜するようなその仕草。
否、本当に大したことをした覚えなどないとでも言うように、レイファは首を傾げる。
そんな彼女の瞳を真っ直ぐに見つめたまま、ヘリアンは飾らぬ言葉を口にした。
「そんなことはない。俺は君に救われた。君のおかげで今の俺がある。あの日のことは本当に嬉しかったんだ。だから、ありがとう」
青臭い台詞だとは思う。
思春期の子供だって、もう少し言葉を濁すものだろう。
だが、これは嘘偽りのない感情の吐露だ。
彼女には心の底から感謝している。
ならばそれは隠すべきものでも、ましてや恥じるべきものでもない筈だ。
感謝の言葉を素直に言えない人間になど、なりたくはない。
「そ、そう言われるとなんだか照れますね、アハハ……。なにはともあれお役に立てたようでなによりです」
レイファは、どこか照れくさそうな微笑みを浮かべ、誤魔化すように髪を弄る。
年相応な少女の仕草だった。
「それに、君の話はとても参考になった。諭されたような気分になったぐらいだ」
「お恥ずかしい限りです。偉そうに語ってしまったものの私自身も半人前でして」
「とてもそうは思えないが」
「いえ、本当に未熟者もいいところです。十分な引き継ぎもなく、唐突に今の立場に据えられてしまったものでして。実のところ、何もかも手探りのような有様で、皆の期待に応える為に精一杯な毎日なんです」
苦味がかかった微笑でレイファは眉尻を下げる。
正直言って意外な反応だった。
驚きと共にレイファの顔を注視してみれば、どことなく目元が暗かった。化粧で誤魔化しているようだが目の隈を隠しきれていない。
どうやら彼女も相当に疲れているようだ。
ふとした疑問を思う。
ヘリアンから見たレイファは女王として立派な人物のように思えるのだが、そんな彼女であっても女王の名を重荷に思うことがあるのだろうか、と。
そんなヘリアンの心を読んだわけでもないだろうが、まるでその疑問に答えるかのように、レイファはポツリと呟きを零した。
「けど、最近皆の期待が重いんですよね……。あ、いえ、勿論期待されなければならない立場ですし、これからもその期待に応えられるよう頑張る所存ですが、たまにふと肩が重くなってしまうといいますか……分かります?」
――その問いに。
ヘリアンは衝動的に、手にしていたグラスをカウンターに叩きつけた。
ガゴンッ! と鈍い音がして、レイファが僅かに身を竦ませる。
しかしヘリアンは彼女の姿を視野にも入れず、カウンターに視線を落としたままギリギリと歯を食い縛っていた。
異世界転移初日から
溢れ出しそうなものを懸命に押し留めながら、ヘリアンは声を絞り出した。
「分かる……ッ!」
グラスを握り締める手は震えていた。
「超、分かる……ッ!!」
呟くようにして吐き出された、その声。
声量こそ大きくは無かったものの、ソレは胸の奥底から絞り出された台詞であり、万感の想いが篭められた魂の言の葉であった。
「………………そ、そうですか」
あまりに重い感情が篭められた返答に、レイファは腰が引けたような仕草を見せた。
しかし、込み上げる衝動を堪える作業で忙しいヘリアンは、そんなレイファの様子に気付くこともなく、しばしその場で身を震わせ続けていた。
そして僅かに落ち着きを取り戻した途端、もしやという響きを込めてレイファに尋ねる。
「ひょっとして、部屋に篭って仕事をしている時、不意に我に返ってしまうような瞬間とかないか? 覚悟を決めたものの、どうしてこうなったんだろうかと考えてしまうと負けというか……分かるか?」
「あっ、あっ、分かります。すごく分かります。考えたらいけないことなんですけど、『考えたらいけない』と思い始めると逆に思考がどんどんそっちの方向に行ってしまって手が動かなくなってしまうこととか、ありませんかっ?」
「ああ、あるとも。大いにあるとも……ッ!」
同志を見つけたような目をしたレイファに、ヘリアンは心の底から同意した。
なんて素晴らしい会話なんだろうか。
この場所で彼女と再会できて本ッッ当に良かった。
ヘリアンは感動に身を震わせながら、濃密過ぎるここ数日間の苦労話について、レイファと語り合い始めるのだった。
・日常回?がそろそろ終わりを迎えようとしている中、苦労人同士が再会しました。
前回のあの後、リビングアーマーくんはちゃんと治療を受けましたのでご心配なく。
・次話の投稿予定日は【2月9日(金)】です。