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幕間    「とある酒場とお客様」

 アルキマイラの城下町。

 その街外れの一角に、古ぼけたとある酒場があった。


 古さだけは負けない、と自己主張しているような場末の酒場だ。

 壁の漆喰はところどころ剥がれかけ、幾度となく修繕を繰り返した結果、意図せずモザイク状の壁面になってしまっている。


 内装もまた古い。

 基本的に木造りの家具ばかりだが、別段、あえて木造の家具で統一しているわけでも無い。近代製品の存在しなかった開店当初から、代わり映えのしない家具を未だに使い続けているだけのことだった。言葉の意味は同じだが、『アンティーク』というより『時代遅れの骨董品』の印象ばかりが先行する。


 しかし、そんな場末の酒場だとしても、積み重ねてきた歴史がある以上、常連客というものは一定数が付くものである。そして常連客が居たからこそ、どうにかこうにか、今の今まで健全な経営を続けられたわけでもあるのだ。


「……そういや、最近ご無沙汰だったっけか」


 そして、店前で乱れ髪を掻く妖鬼の男も、その常連客の内の一人だった。

 たまたま通りかかっただけではあるが、既に日が沈んだ後であり、時刻は夜に差し掛かったばかりという塩梅。ここ二週間ほどは足が遠のいていたが、今日は久しぶりに呑んで帰ってもいいかもしれない。


 先日の戦争でボーナスを貰ったこともあり、幸いにも懐は温かい。

 突如として異世界に飛ばされ、明日をも知れない生活を強いられはしたが、それも先日までの話だ。あの演説を目にした国民の中に明日を憂う者など居ない。アルキマイラはあの王が率いている国なのだ。

 ならば、明日の心配などするだけ無駄な話である。


「ということで、俺がパーっと飲み明かしても何の問題も無えってことだな」


 財布を収めた懐をバンバンと叩きながら、彼は独り言を呟いた。

 さすがに財布をすっからかんにしては帰宅後の嫁の反応が怖いが、少々軽くなったぐらいで怒られることは無いだろう。


 そろそろ開拓事業が始まると聞いている。国家主導の公共事業として、元々首都在住だった民達は勿論のこと、建国祝賀祭の為に集まった各軍団の軍人達に対しても多くの雇用創出を行うとのことだ。


 自分もそれに参加するつもりであり、つまりは財布は直ぐ様に重みを取り戻すということでもある。ならば今日は飲むしかあるまい。明日の事は明日考えればいいのだ。


「そうと決まれば――オーッス、久しぶりだな店長! 邪魔すんぜー」


 立て付けの悪い扉を押し開き、店の奥へ声を放つ。

 しかしながら、馴染みの店長はカウンターに居なかった。店内を見渡しても姿が見当たらない。


「……あれ。店長どうしたよ?」

「んあ? ……ああ、お前か、久しぶりだな。店長なら仕入れに行ったよ。ワインが切れちまったらしくてな」

「ワインだぁ? この店でそんな上品なモン頼む客がそんなに居るのかよ?」

「……そうか。お前こないだの一件の時、居なかったんだな。まあなんだ、最近はこの店の客層もちいとばかし変わったんだよ。詳しい話は店長から説明があっから、その辺でちいと待ってな」


 扉近くの席で飲んだくれていた虎獣人(ワータイガー)の常連客と会話を交わす。

 そして店内を見渡してみれば、客層のみならず客の入りまで随分変わってしまっているように思えた。


 いつもは半分も客が居れば良い方だったにも拘らず、今日はほぼ全ての席が埋まっている。それどころか、中には立ち飲みしている客まで居る始末だ。


「おっ。なんだ、奥のカウンター席空いてんじゃねえかよ」


 目ざとく、空いている席を見つけた。

 カウンターの隅っこの席が二つだけ空いている。妖鬼はノシノシと店内を突っ切り、その空席へ腰を下ろそうとして、


「んあ……あ、あぁ!? バッ、馬鹿、そこには座るなああぁぁぁッ!!」

「へ?」


 何故か、虎獣人(ワータイガー)から制止の声が飛んできた。

 だが遅い。既に座る為の動作(モーション)に入ってしまっている。何やら必死な形相をしている虎獣人(ワータイガー)の視線の先で、妖鬼はそのまま席に腰を落とし――尻が座席に付く直前、横合いから飛んできた拳にぶっ飛ばれた。


「ぼぐぇあ!?」


 裏拳気味の軌道で飛んできた拳は妖鬼の鼻っ面に命中し、結果として彼は後方へ一回転することになった。予想もしていなかった鋭い一撃をまともに喰らい、後頭部を地面に打ち据える。


 しかし、彼とて軍人だ。

 すかさず両手で地面を打って、バク転の要領で更に後方一回転。そのまま両足を床に打ち込み、問答無用で攻撃を放ってきた下手人を視界中央に捉える。


「いきなり何してくれてんだ、クソ野郎がッ!!」

「馬鹿野郎、そりゃこっちの台詞だッ!! むしろ感謝しやがれクソ鬼!!」

「ンだとゴラァ! 何処の誰が『殴ってくれてありがとう』だなんて台詞口にするってんだ!? 寝ぼけてんのかテメェッ!」


 中腰になって拳を構える。得物の大槌は持ってきていないが、そんなことは問題にならない。いきなり殴られて仕返しをしないなど、鬼としての沽券に関わる。


 妖鬼は腰を深く落とし、飛び込む為の溜めを作る。しかし飛びかかるその直前、馴染みの虎獣人ワータイガーが再び妖鬼を制止する。


「おい、止せ! 今回はマジでオマエが悪い! つうかオマエ、たった今命拾いしたんだよ!」

「……はぁ?」


 飲み仲間にまで止められるとあっては、耳を貸さないわけにはいかない。


 他の国ならどうかは知らないが、ここはアルキマイラだ。話し合いの余地があるなら、まずは話を聞くべきだという常識(ルール)があった。そして話を聞いた後、それでも気に食わなかったら改めてぶん殴ればいいのだ。


 渋々と戦闘態勢を解きながら、改めて下手人を見る。僅かに黄色味がかかった肌をした、一般的なオークだ。装備がそれなりにしっかりしているところを見ると、もしかするとハイオークかもしれない。


 そのオークが、唾を飛ばす勢いで怒鳴ってきた。


「いいか、馬鹿鬼! オメエさんが座ろうとしてた席はだな、今や永久指定席なんだよ!」

「……はぁ? この酒場にそんなモンあるわきゃねえだろが。俺ら常連が来なきゃ閑古鳥が鳴いてるような店だぞ、ここ。それなのになにが指定席だよ。呑み過ぎてラリっちまってんじゃねえのか」

「俺はまだ一滴も呑んじゃいねえよ。このジョッキの中身はただの茶だ!」


 妖鬼は不審げにジョッキを見たが、なるほど確かに泡が浮いている様子も無い。色合いといい、本当に中身は茶なのだろう。


 酒場に居るのに何で茶なんか呑んでんだ、と訝しみながらも話を続ける。


「よく聞け馬鹿鬼。その指定席にはな、やんごと無きお人しか座っちゃいけねえんだよ。ここの店長が、とある一件以降、そう決めたんだ」

「やんごと無きお人だあ? 仮にこの店に指定席を構えたい酔狂な客が居たとしても、せいぜい小隊か中隊規模の部隊長クラスだろうに。わざわざ大袈裟な表現使うなってんだ」

「部隊長クラスなわけがあるか。もっと上だ」

「あん? もっと上って……おいおい、まさか軍の幹部格が来てるってのか?」


 いくらなんでも酔狂すぎるだろう、と妖鬼は鼻を鳴らす。


 大隊長が呑みに行くような場所は、もっと小洒落た店であることが多い。責任ある役職ということもあり、彼らは高給取りだ。こんな場末の酒場に来る必要など無い。


 しかし、オークは重苦しい溜息を吐きながら首を横に振った。


「更に上だ」

「ハァ? ……いや、更にその上って……副団長格か? まさか軍団長だとかアホみたいな冗談言わねえだろうな」

「まだ上だ」

「……待て待て、笑えねえぞ。その上つったら……いやいや、間違っても統括軍団長が来るような店じゃねえだろ、ここ」

「惜しいな。冗談みたいな話だが……もう一つだけ上なんだよ、これが」


 オークの言葉を受け、苦笑いを浮かべていた妖鬼はその表情を真顔に変えた。

 そして、妖鬼は改めて拳を握り込み、一歩前に出る。世の中には『許される言葉』と『許されない言葉』の二種類があることぐらい、彼とて知っていたからだ。


「――よお豚野郎。マジで冗談じゃ済まされねえぞ、そりゃ。今なら半殺しにして(しま)いにしてやっから、笑えねえホラを吹くのは止めとけや。今のを第二軍団の衛兵に聞かれでもしたら、オマエさん、不敬罪で首を刎ねられても文句言えねえぜ?」

「衛兵か。そりゃいいな、是非とも呼んできてくれ。頭の固いアイツらに保証してもらや、オメエさんとて俺の言ってることを信じられるだろうさ」

「……………………嘘だろ、オイ」


 挙動不審に周りを見渡すが、誰しもが生暖かい視線を向けてきていた。

 少なくとも、妖鬼に同意するような様子の者は見受けられない。


「いや……いやいやいやいや、おかしいだろ。だって、ほら……いやいやいやいや、あり得ねえ。マジであり得ねえぞオイ」

「呑んでもねえのに、訳が分からねえ言語を垂れ流すのはやめとけ」

「訳が分からねえのはオマエの方だってんだよ! 自分が何言ってるのか本気で分かってんのか!? 統括軍団長の上っつったらオマエ……この世に一人しか居ねえだろうが!」

「そうだな。――だから、つまりは、そういうことだ」


 やや同情が混じった声色で、オークが諭すように頷く。

 馴染みの虎獣人ワータイガーまでもが同意するように頷いているのを目にして、さすがの妖鬼も、それが真実なのだということを理解する。


 そして、つい先程の自分がどこに尻をつけようとしていたのかを思い出し、青褪めた。


「んでだ。それを踏まえた上で、俺に対してなんか言うことあるかい? 常連さんとやらよ」


 考えるまでも無い。

 妖鬼は握りしめていた拳を下ろすと共に、真剣な表情でオークと向かい合い、


「――咄嗟に殴り飛ばしてくれてありがとよ、兄弟。今晩は奢らせてくれ」

「茶で良けりゃ、ありがたく奢られるとするぜ。そろそろ常連連中は一通り知ったとばかり思い込んでたもんでな……久々に肝を冷やされたぜ」


 心底疲れたように、下手人改め救世主のオークが椅子に腰を降ろす。

 その右隣に座ってたドワーフが、気を利かせたのか妖鬼に席を譲った。そのドワーフにエール一杯分の大銅貨を投げ渡してから、妖鬼はオークの隣席に腰掛ける。


「いやしかしよ、念の為の最終確認なんだがマジか? マジであの方の指定席なのか、あそこ」

「お望みとあらば何度でも言ってやるがマジだ。つい最近起きた、とある一件の後にそうなったんだ。……ちなみに“とある一件”については訊くな。箝口令が布かれてるから俺たちも答えられねえんだ」

「お、おう……」


 先程までの自分が棺桶に足を突っ込んでいた事実を自覚し、さすがに戦慄した様子で妖鬼は身体を震わせる。


「それと『あの方の指定席』って話はなるべく広めるなよ。オマエさんは昔からの常連客らしいから例外的に教えたが……先方はこの件をあまり拡散させたくないらしい」

「知ってる奴だけ知ってりゃいい、ってことか。けどよ、それじゃさっきの俺みてえに知らずに座るやつがいるんじゃねえのか?」

「だから俺や他の常連客が交代で見張ってんだよ。つい数日までは“にわか”の客ばかりで大変だったんだぜ……ようやく落ち着いたと思ってた矢先にオマエさんが現れたしな」

「……まあ、なんだ。悪かったよ兄弟。こないだまではウチの嫁さんの目が厳しくてな、この酒場ともご無沙汰だったんだ」


 ああ嫁持ちか、とオークは軽く同情的な視線を妖鬼に向けた。鬼族から贈られる装飾品を身に着けているところを見ると、嫁も鬼族なのだろう。


 鬼族の嫁は怖い。しかも大抵が物理的に強いのだ。更には、夜はかなり激しい。

 同僚の赤鬼族がげっそりとした顔で出勤してきた時には皆して生暖かい視線で出迎えたものだ、とオークは懐かしい思い出に浸る。


「ん? そういや、二つ席空いてるよな? 立ち飲みしてる客まで居んのに、隣の席まで空いてるってこたぁ……」

「そっちも指定席だ。座っていいのは、とあるお客人だけらしい。もしかしたら、あの方が招いた他の客が座ることがあるかもしれねえが……とりあえず、指定席であることには変わりねえよ」

「……お忍びでの密会ってやつか?」

「さあな。恐らくそうだとは思うが、そもそもあの一件以来、まだ一度もお出でになってねえからな。実際のところはよく分からん」


 オークはあの日以来、毎日欠かさずこの酒場に通っているが、予約席はずっと空席のままだった。店長はいつあの方が来てもいいように、カウンターやグラスをピカピカに磨いて待っているが、今のところあの方が現れる気配はない。


「……なあ、ところでよ。予約席んとこカウンターに置いてある水晶体の飾り(オーナメント)なんだが」

「お察しの通り魔導具だよ。声が他に漏れないようにする為の防音術式と、他者からの認識をそれとなく逸らすための幻惑術式、それに簡易隠蔽術式が篭められてる。あそこに置いてくれってな手紙と共に、小包で届けられたとのことだ。差出人不明らしいがな」


 その魔道具は今は起動されておらず、ただの飾りとして置かれている。

 しかし一度起動してしまえば、その席に座っているという事実すら認識されなくなる。防音術式と隠蔽術式の効果も相まって、その空間だけは誰の目にも止まることのない、まるで密室のような状態になるだろう。


「防音術式はともかく……幻惑術式に、簡易とはいえ隠蔽術式込みかよ。しかも複合術式で三重に刻み込まれている魔導具ってことは」

「下手すりゃ準宝具級だな。で、俺はそれ含めて指定席の警護兼、新たな常駐客ってわけだ」


 わざわざ口には出さなかったが、警護役のオークには、中隊規模の部隊長クラスの給料が約束されていた。


 知らなかったこととは言え、“例の一件”で不敬罪紛いの暴挙をやらかした彼は、『城から辞令が届けられた』と部隊長から伝言を聞いた際に潔く死を覚悟した。しかしながら封を開けてみれば、濡れ手に粟もいいところの高待遇が記された労働打診書が入っていたというわけだ。


 だが、気軽に行える仕事というわけでもない。なにせ、見張っているのは準宝具級の魔導具だ。あれを売り払えば、首都の大通りにだって店を構えられる金が手に入るだろう。間違っても場末の酒場のカウンターに無造作に置かれていていい代物ではない。


 打診書には『出来れば常駐してくれるとありがたい』『飲みの片手間でいいので、それとなく気にかけてくれ』程度に仕事内容が書かれていたが、自分にこの命令を下したのが誰なのかを思えば間違っても気を抜けない。責務の重さを思えばアルコールの摂取などご法度だ。


 そう結論づけた彼は、酒場に居るにも拘らずこうして麦茶を口にしているのである。閉店間際で客がはけた際には最後に一杯ヤルこともあるが、今のように店長が席を外す可能性がある場合は断固として飲まないことにしているというわけだ。


 余談だが、特別任務扱いで本来の部隊を離脱している為、そろそろこの店の店員として正式に雇用してもらおうかと考えていたりもする。

 今回の件は例外として、大抵の客は『指定席』について承知済みなのであり、近いうちに手持ち無沙汰となるだろう。無論護衛は続けるが、指定席近くのカウンターで食器磨きぐらいは出来る。働きもせずただ茶ばかりを飲む毎日は御免だった。


「やあやあシンゴーキさん、お待たせしやした。留守番なんて頼んじまって悪かったね。……おや、お隣の客人は」


 語り合っていた二人の背後から、ワインが詰められた木箱を抱えたゴブリンが声をかけてきた。この店の店長だ。


「よぉ、ご無沙汰してんぜ、店長」

「やっぱり、妖鬼の坊主じゃねえですか。いやいや、お久しぶりでさぁ」

「いつも言ってるが坊主はそろそろ止めてくれよ、店長。……ところでシンゴーキってなんだ? 真剛鬼?」

「俺の渾名(あだな)だよ、兄弟。俺はオーク族であって、剛鬼やら豪鬼なんかじゃねえんだけどな……」


 若干疲れた様子で、オークがため息を吐いた。

 何やら黄昏れているようにも見受けられたが、面倒くさそうな雰囲気を察した妖鬼は無視した。


「あー、店長。とりあえずエールをジョッキで一つと、あとピッチャーで二つくれ。それと、隣の兄弟に茶をたんまり出してやってくんねえか。俺の奢りで」

「おや、豪勢な上に奢りとは珍しい。前にウチにいらっしゃった際には、金欠を嘆いていたと記憶してやすが?」

「こないだの戦争でボーナス入ったんだよ。支給金額については、まだ嫁にバレちゃいねえからな。今日ぐらいパーッとやったって構いやしねえ」

「……前にもおんなじような台詞を聞いた気がしますがねぇ。確かそん時は、結局嫁さんにバレて病院送りになってたような……」

「しかも診療代出してくれなかったからな、ウチの嫁さん……。結局肉体労働で支払い済ませたのは忘れられねえ思い出の一つだ。まあ、ウチの嫁さん可愛いから文句言えねえんだけどよ」

「色々な意味で相変わらずですねぇ。んじゃ、ちょっくら準備しますんで少々お待ちくだせぇ」


 その後、妖鬼とオークは、飲み仲間の虎獣人も交えた三人で夜遅くまで飲み交わすこととなった。

 三人以外の最後の客がはけた後、それまでは茶だけを飲んでいたオークもようやくエールを手にし、最後にはベロンベロンになりながら、三人して肩を組んで帰路につくこととなった。


 そして、赤ら顔をしていた所為で呑みの使い込みがバレた妖鬼は、結局いつも通り嫁にボコられ、絞られることとなったのである。





    +    +    +





 そして数日後、とある客がその酒場を訪れた。

 立て付けの悪い扉を押し開き、少々耳障りな音と共に、一人の青年らしき人物が店内に入ってくる。


 不思議なことに、その青年らしき人物が誰なのか、店長は思い出せなかった。

 どこかで見たような気もするし、初めて会ったようにも思える。そして異様なまでに印象が薄かった。どこか思考に靄がかかったように、彼が誰なのかを認識できない。


 それは本来ならば不自然だった。不自然極まりない現象の筈だった。しかしながら突出した魔術抵抗力を有していない店長は、それを不自然と認識することが出来なかった。


 故に店長は、その『誰でもない誰か』な客に対し、いつものように「いらっしゃいまし」と声をかける。


 すると、その客は迷いの無い足取りでカウンター席に向かった。しかもあろうことか、壁際に空いた二席の内の一つに腰掛けようとしているのである。新米ウェイターのオークが制止の為に手を伸ばすのに先んじて、店長は『誰か』に対して言葉を発した。


「――ご新規さん。誠に申し訳ありやせんが、そこに座るのはちいとご遠慮いただけねえですかね? そこは、とあるお人専用の指定席なんでさあ」


 すると、その『誰か』は少々戸惑ったような仕草を見せた後、以下のような旨を店長に告げた。


 『自分は先日、とある一件が起きた際に、この店に居た者だ』と。

 そして更には『それを知った上でここに座りたいのだが、構わないか?』と。


 その言葉を聞いた瞬間、店長は僅かながら思考の靄が晴れたように感じた。そして、目の前の『誰か』が『誰なのか』を正しく認識した。


 同時に、とある強い感情が店長の脳裏を走る。

 全身を雷で打たれたようなその感情には、様々な色が篭められていた。

 百年もの間、溜めに溜め込んだその感情は一言で語れるような安いものではなかったが、無理矢理言葉にするならば歓喜の二字が相応しいだろう。


 常人であればその感情に心身を打たれ、すぐさま復帰することは出来なかったに違いない。しかしながら、店長はプロだった。接客業に携わる者としてプロ中のプロだった。


 故に、店長――ゴブ太郎は直ぐさま居住まいを正し、背筋をピンと伸ばした。


 続いて制服のネクタイをキュッと締め直した後、軽く上げた右腕を半円を描くようにして胸前に持ってくる。そして九十度の角度で腰を折り、恭しく頭を下げた。

それは場末の酒場としては場違いも甚だしい、礼節を弁えた完璧な一礼であった。


 そうして床を見つめたまま、ゴブ太郎はご新規のお客様に対し――長年待ちわびていた、ただ一人のお客様に対し、歓迎の言葉を口にする。


「心よりお待ちしておりやした、お客様。誠心誠意おもてなしさせて頂きやす。

 ――ようこそ、『始まりの地の酒場』へ」





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