第二十九話 「逃亡」
――目を覚ませば。
緻密な金細工が施された、格調高い様式の天井が目に映った。
「……知ってる天井、だな」
そこに描かれているのは、軍勢を背にした八体の魔物に
世界の覇者を決める戦いを制した際の
ここはアルキマイラの城の一室、王の寝室だった。
「なんでここに……、っ」
身を起こすと倦怠感に襲われた。
次いで目眩。視界が揺れる。たまらずベッドに身を横たえた。
「……気を失ってたのか」
徐々に思い出す。
ノーブルウッド兵を掃討したこと。
ラテストウッドの首都を奪還したこと。
癒えない傷を負った者達を治療させたこと。
国同士の約定について決着を付け、大まかな戦後処理を終えたこと。
記憶に残っている映像はそれで最後だ。
「気持ち、悪い」
不愉快な感覚を洗い流したい一心で、サイドテーブルに置かれていた水差しに手を伸ばした。黄金細工が施されたコップに中身を注いで一気に呷る。喉の渇きは癒やされたが、気分の悪さは変わらない。だが、
「……動ける?」
ふとした疑問。
確かに不快感はあるが、一方で動けないほどでもない。
気絶前の自分の状態を思い返してみれば、この程度の体調不良に留まっていることがむしろ不可解だった。
ポーションを使って強引に行った“秘奥”の連続使用により、自分の身体は相当な負荷を被った筈だ。それこそ数日寝込んでいるのが普通に思える。
ふと見れば、水差しの置かれているサイドテーブルに二枚の書き置きがあった。
一枚目の書き置きを手に取れば、綺麗な字で伝言が簡潔に書かれていた。そしてその内容に目を通し、ある程度回復した自分の体調について納得する。
「〝世界樹の聖水〟を使ったのか……道理でな」
それは希少も希少、超大国アルキマイラでさえ三個しか保有していない超希少アイテムである。
ありとあらゆる状態異常を解消し、全
神の試練イベントで稀に入手することも出来るが、そこそこの大国でさえ戦力損耗は避けられず、中には入手に拘るあまり、保有戦力の三割近くを失った国もある。
ゲームであれば〝世界樹の聖水〟を使用できるのはプレイヤーのみだったが、リーヴェが独自の判断で宝物庫から持ち出してヘリアンに使ったらしい。書き置きには『無断使用について、あらゆる処罰を受け入れる』との旨が書かれていたが、彼女を咎める気にはなれなかった。
希少なアイテムであることは確かだが、それを無断で使わざるを得ない程、ヘリアンの容態は危機的だったということなのだろう。
続いて二枚目の書き置きについて流し読んでみれば、『王が行動不能な間の諸務を可能な限り代行しておきます』とのことだった。
リーヴェが傍に居ない理由にはそれで納得した。反乱騒動の時とは異なり、今は戦争直後だ。戦後処理を終えると宣言したものの、それは大まかな部分だけで、詳細な摺り合わせの準備や雑務は山ほどある。その仕事の一部を代行してくれているのだろう。
自分の仕事を他の誰かに任せることには、条件反射的に不安を覚える。
だがゲーム時代でも、国王側近であるリーヴェや内政担当のエルティナが、プレイヤーに代わって一部業務を執り行っていた事を思い出し、不安を振り払った。
重要な決定事などはプレイヤーにしか出来ないが、わざわざプレイヤー自らが判断する必要もない雑事は彼女らが一手に引き受けていたのだ。ならば今回も任せておいて大事には至らないだろう。ゲーム時代の出来事を完全に信用して判断を行うのは危険に思えるが、一方で彼女達なら大丈夫だろうとの思いもあった。
第一、ヘリアン自身が政務を執り行える状態では無い。
「…………」
ノロノロと身体を起こして、剥ぎ取るようにして脱いだ
「これは、我らが王……! お目覚めですか」
扉前に待機していた近衛兵が一斉に敬礼する。
ズラリと居並ぶ
「ああ……私はこれから外出する」
「お身体の方は……いえ、失礼致しました。それでは御身の護衛を」
「いや、不要だ。少々思うところがあってな」
「そ、そうは仰いましても……」
「構わん。王命だ。リーヴェやバランに文句を言われたら、私から強く命じられたと説明しろ」
歩みを進めながら、適当な言い訳で煙に巻いた。
王命とまで告げられてしまった
そしてヘリアンは廊下の角を曲がり、誰にも見られていない隙を突いて灰色のローブを羽織り、顔を隠した。
誰もいない廊下を一つの靴音が無機質に響き、城外を目指し遠ざかって行く。そこに王の姿は無く、誰でもない“誰か”がただ一人歩いているだけだった。やがて靴音は大階段を下り、エントランスを抜け、庭園を通り、城門を
――王は、城を逃げ出した。
+ + +
城下町は熱気で包まれていた。
衣食住が満たされ、他の脅威に襲われる心配のない、安全な夜が約束されたアルキマイラの街。そこでは多くの国民が幸福な生活を送っている。
しかしアルキマイラの国民といえど、魔物である以上は多かれ少なかれ闘争本能を有していることに変わりはない。平和を享受しているだけでは、いつしか物足りなさを覚えるのは魔物として当然のことであり、更には未知なる大地へ転移させられた
そこへ先日の全軍出撃命令、しかも王直々に全軍を率いての戦という夢舞台が舞い込んできた。魔物達が我こそはと勇み立ち、
国元へ凱旋した軍を、市民は盛大な歓声と花吹雪で迎え入れた。勝利を得た軍人達もまた誇らしげに胸を張り、雨のように降り注ぐ拍手喝采を身に浴びる。
ずっとそこで待っていたのだろうか。
そこに嫉妬混じりの罵声が混じっていることを聞き咎めた青年は、周囲に見せつけるように恋人の頬に口づけを落とした。女性陣からは黄色い声が飛び、男性陣からは怨嗟の声が発せられる。
そして、はにかむ恋人の肩を抱きながらニヤニヤとした表情を浮かべる青年は、血の涙を流しかねない形相をした青鬼族の男に八つ当たりの殴打を貰った。
しかしそのお返しに、花妖精の女性はスナップの効いたビンタを青鬼族の男に見舞った。意外と高レベルだったのか、花妖精の女性が繰り出したビンタは青鬼族の防御力を突破したらしく、結果として男は真っ赤な紅葉を頬に貼り付かせることとなった。
その様子を見ていた仲間達は指まで差しながら馬鹿笑いし、やり場のない怒りの矛先を見つけた青鬼族の男と、その仲間達とのじゃれあいじみた小競り合いが始まる。
もはや完全にお祭り騒ぎだ。
戦闘終結から一日経ってもその熱気は留まることを知らず、軍人らは酒場という酒場で己の戦果を自慢しあい、居合わせた市民達は『武勇伝を語ってくれ』と
「そこで奴らが繰り出してきたのが、遠距離からの風魔術による一斉攻撃だ! 十重二十重の刃が俺の生命を刈り取ろうとしてくるが、そんな弱っちい風の刃に背を向ける俺っちじゃねえ! 俺っちは風魔術の吹き荒れる空間へと真正面から飛び込み、自慢の拳を振るって迎撃してやったのさ! その時の奴らの間抜けな顔と来たら、おめえらにも見せてやりたかったぜこんちくしょう!」
「……なにが十重二十重の刃だ、盛りすぎだ馬鹿。お前が前線投入された頃には瓦解状態もいいとこで、組織行動できるような獲物なんて残ってなかっただろが」
「た、確かに俺っちが
「一匹あたり数発しか風刃飛ばせないような雑魚ばっかりだっただろうが。アレで手傷負うほうが恥ずかしいってんだよ、間抜け」
「そういうテメエは一匹も
「上等だ表出ろクソ野郎ッ! お前相手に斧なんざ要らねえ! 拳で決着つけてやらぁ!!」
突如始まった乱闘に、『おー、やれやれー!』と
誰も彼もが笑っていた。
乱闘している張本人達も例外ではなく、当初こそ怒りを露わにしていたものの、今では一発一発拳を交換しあいながら馬鹿笑いしている。居合わせた市民や軍人はジョッキを打ち鳴らし、乱闘を
この日ばかりは、規律にうるさい第二軍団の警邏隊ですら『ほどほどにしておけよ』と小言を言うに留め、街の至る所で『乾杯!』の掛け声が飛び交っている。
――そんな中、俯きながらあてもなく
表情は暗く重い。
周りの喧騒とは一線を画したその様子に怪訝そうな顔を向ける者は多いが、一方で
それは、彼が頭から被っている灰のローブの効果のおかげだった。[タクティクス・クロニクル]では極めて珍しいプレイヤー専用装備である灰のローブは、見る者の認識を誤魔化す強力な欺瞞魔術がかかっている。『お忍びで街を視察する為』に運営が用意した装備であり、このローブのおかげで、ヘリアンは誰にも正体を気づかれること無く街を彷徨っていた。
「…………疲れた」
どれほど歩いただろうか。
行くあてなどありはしない。
ただ、王である事の象徴とも言える城から逃げ出したかっただけだった。
一夜明ければ冷静になる。
昨日自分が仕出かしたことの
仕方のないことだった。
武力を使わざるを得なかった。
奴らは人にあらざる
苦しむハーフエルフを助け出しただけだ。
そう自分に言い聞かせるものの、そしていくら倒した相手が人を人とも思わない
――だが、目の前で歓喜に沸く魔物達にはそれが一切無い。
ノーブルウッド兵を倒した様子を臨場感たっぷりに語り、敵の生命を絶った己の得物を自慢げに掲げ、観衆もまた老若男女を問わず喜んで聞き入っている。人間と魔物の決定的な違いを見せつけられている気分だった。
そんな魔物の王であるヘリアンは、今後も国の舵取りをしていくことになる。
国民を不幸に陥らせないよう優れた治世を布き、今後接触するであろう他勢力との外交では断固たる強い姿勢で臨み、いざ戦争となれば国民を鼓舞してその先頭に立たなければならない。
「……出来るわけがない」
先日の演説では確かに民意を得ることが出来た。
想像以上の反響があり、絶大な支持を得られたといっても過言ではない。
だが、それが
では、今後も戦い続ける道を選ぶしかないのだろうか?
否、それこそまさかだ。
今回は害獣駆除であると自分を騙す事が出来た。だが、今後アルキマイラが接触する他勢力があんな外道ばかりな筈もない。
しかし戦わずして王で在り続けるならば、戦を厭う主張をしてもなお、民意を味方に付けられるほどのカリスマを発揮するか、優れたリーダーシップと政治力を発揮するしかない。だが、ヘリアンは所詮は一般的な日本人であり、一介の学生だ。政治学や帝王学など専門外にも程がある。出来るわけがない。
「ふざけんなよ……俺、ただの学生だぞ。政治なんて出来ねえよ……なんでこんな事になってるんだ……」
王として振る舞わなければ、いずれ信を失い反逆されるだろう。
そして謀反されれば、脆弱な人間であるヘリアンに抗う術は無い。
故に、万魔の王たらん姿を見せ続ける必要があるということになる。
だが、王としての外交技術は殆ど無い。
大学で受けた講義の知識など、所詮は付け焼き刃だ。
「いつの日か必ずボロが出る。ボロが出たら見限られる……。見限られたら裏切られて、殺される……」
思考が悪いループに嵌まり込んでいるという自覚はあった。
だが、相談できる相手などいない。
こんなことは、たとえリーヴェであっても話せるものではなかった。
理解者もいない。
十万人以上の国民を抱えるアルキマイラにおいて、人間は自分一人だけだ。
現実世界に帰れる手立ても無い。
そんな手段が本当にあるのかさえ判らない。
かといって、この世界で一人の人間として生き続けることすら困難だ。
魔獣の蔓延るこの地では、魔物達の力を頼りにしなければ生き延びることすらも叶わない。運良く森を抜け出して安息の地へ辿り着けたとしても、第六軍団によってあっさりと居場所を突き止められてしまうことだろう。
とどのつまり、『現実世界に帰るのを諦めてこの世界で生き続ける』という選択肢にすら、『ヘリアンが万魔の王で在り続ける事』が前提条件として記載されているのだ。
「元の世界に帰れるかどうかも分からない。
理想の王で在り続けるのなんて不可能だ。
いつか裏切られて死ぬ。
だけど逃げてもあっさり見つかる。
逃げたのがバレたら失望されて殺される」
詰んだ。
そうとしか思えない。
わけも分からず叫び出したくなった。
もう嫌だ。
もうたくさんだ。
なんで俺がこんな目に合わなければいけない。
至って平凡に生きてたはずだろう。
誰にも迷惑をかけず、表舞台に立つこともなく、どこにでもいる一般人として生きてきただけじゃないか。
それなのに、いつも通りゲームを楽しんでいたらある日突然異世界だ。
弱肉強食の摂理に生きる魔物達の王だ。
意味が分からない。
ふざけている。
理不尽にも程があるだろう。
周りには家族や友人もおらず、見知った風景も無い。
この空は日本に続いてすらいないのだ。
「どうして、こうなった……。何で俺が、異世界なんかに……」
弱々しい呟きは雑踏に消えた。
そのままフラフラと歩き続け、どこをどう歩いてきたのかも忘れた頃、町外れの一角に辿り着く。
ふと顔を上げれば、『ジョッキから溢れる酒』の絵が書かれた看板があった。
文字の読めない国民が多かった時代から愛用されている、酒場のマークだ。
看板がとりつけられたその建物はやけに古ぼけていた。壁の漆喰はところどころが剥がれかけ、何度も改修と応急処置を繰り返したらしき壁面はモザイク柄になっている。年季だけが自慢だと自己主張するその建物は、まさに場末の酒場にぴったりの外見と言えた。
「……酒、か」
ヘリアンは酒を
大学のサークルに入った際にはお約束とばかりに酒を勧められたが、頑として断った。歓迎会に誘われておきながら酒を断る新入生に、サークルの先輩達は不愉快な顔をしていたが、それでも未成年なのだから呑む訳にはいかないだろうという思いがあった。
お固いヤツだと
だが、こんな世界に
店に入るなり、きついアルコール臭と肉の焼ける香ばしい香り、そして魔物達がジョッキを打ち付け合う光景がヘリアンを出迎える。
普段は仲の悪いはずのドワーフとエルフが肩を組んで祝杯を交わし、
所々に客の魔物達が転がっていた。右目に痣を作って寝ているのは喧嘩の敗者なのだろう。酒瓶を抱えて幸せそうに眠るドワーフを避けながら、ヘリアンは空いている席を探す。
どうやらこんな場末の酒場でも、今日ばかりは大盛況らしく、殆どの席が埋まっていた。幸いにもカウンターの隅っこの席が二席空いていた為、壁際の席にヘリアンは座る。
「いらっしゃいませ」
カウンターの奥から渋みのあるしわがれた声が届いた。この酒場のマスターだろうか。建物と同じく年季の入った声だった。
顔を上げることなく、ヘリアンは注文する為のメニューを探す。
「お客さん、ここは初めてですかい?」
「……そうだけど?」
「ウチにメニュー表は無いんでさ」
はぁ? と眉を顰める。
メニュー表が無いとはどういうことだ。いくら酒場とはいえ酒を出してりゃそれで良いというものでもないだろう。よくは知らないが、ツマミとかの注文も入るだろうに。
「昔からの伝統でね。『メニュー表が無い酒場とか、過渡期っぽくて雰囲気出そうじゃん?』とオーナーが仰って以来、ウチはこのスタイルを貫いとるんです」
いや、確かに発展途上というか……中世あたりの古臭い雰囲気作りに一役買っているかもしれないが、利便性が悪すぎるだろう。いちいち店員に訊かないと飲み食い出来るものが何かすら判らないのは不便に過ぎる。雰囲気作りだかなんだか知らないが、オーナーの経営方針には一言文句を言ってやりたい。
「酒ならなんでもいいから、適当に出してくれ」
「初見さんでしたらオススメのエールがありやすが、如何ですかい?」
「じゃあそれで」
何でもいい。
酔えればそれで構わない。
嫌な事が忘れられるなら味なんて心底どうでもいい。
「へい、お待ち」
立ち喰いラーメンの店主のような気安い声と共に、ハーフサイズの杯が目の前に置かれた。炭酸の弾ける爽やかな音が耳をくすぐる。
琥珀色に輝く液体。いざ呑もうとしたところで、未成年としての良識から僅かな抵抗感を覚えたが、構うものかと一気に口に含んだ。途端にむせ返りそうになるアルコール臭。舌に苦味。一瞬吐き出したい誘惑にかられたがグッと堪える。が、呑み込むまでには至らない。
「あの……お隣空いてますか?」
僅かに
ヘリアンはぶっきらぼうに頷いて答えた。そして、口の中のアルコールと悪戦苦闘しながら、何気なく声の主に視線を向ける。
「では、失礼します」
隣の席に腰掛けたのは十五歳程度の少女だった。
中途半端に尖った笹耳。鋭さと優しさを併せ持つ光を宿した緑色の瞳。痩せた体躯に瑞々しい肌。幼さの抜けきっていない、つい最近何処かで見たことのある顔立ちの……
――ラテストウッドの女王様がそこにいた。
「ぶふぉあ!? げっほ、げほ、えほ……っ!」
「きゃあぁっ!? え、え? ど、どうしたんですか? 大丈夫ですか!?」
前触れもなく吹き出した青年の奇行に悲鳴をあげつつ、隣席の
場末の酒場で、王と女王は人知れず邂逅を果たした。