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第二十六話 「王の激情」

 ――正直、死に物狂いだった。


 どうにか万魔の王【ヘリアン】を演じきったが、前もって用意していた台本(シナリオ)を使えたのは6割がいいところで、後は民衆の反応を見ながらアドリブで演説をこなさざるを得なかった。

 なんとか平静を装い続けたものの足は震えっぱなしで、最後まで立ち続けられたことについては自分で自分を褒めてやりたい気分だった。自分の足でバルコニーまで歩いて戻れたことに至っては、殆ど奇跡だ。


 だが、国民達の反応を見るに十分な賛意を得られたと判断していいだろう。

 少なくとも『国民の不安を払拭』『ラテストウッド国民救出の決意表明』『事態解決に向けての意思統一』などといった要点は押さえ、最低限の目的は果たした。ならばそれで良しとする。今考えるべきは既に終わった出来事ではなく、これから挑む目の前の問題だ。


「ヘリアン様、そろそろノーブルウッドの……いえ、ラテストウッドの首都圏内に入ります」


 横を歩くリーヴェが囁く。

 現在、一行はノーブルウッド支配下の拠点――即ち、ラテストウッドの首都に向けて足を進めていた。


 <地図(マップ)>を開けば、首都の詳細な地形情報が表示されている。

 深淵森(アビス)を抜けた第四軍団と第七軍団が情報収集能力を十全に発揮した結果であり、遠距離からの探査(サーチ)魔術、それに隠密兵による偵察によって判明した情報だ。


 調査に使える時間が僅かしか無かった為、首都に存在する生命体の一体一体の位置までは判明しなかったが、地形情報が分かっただけでも大分違う。


 調査には隠密性よりも迅速性を重視させた。

 もしかするとノーブルウッドや、ひいては他勢力にもこちらの存在を察知された可能性があるが仕方がない。目隠し状態のまま、目の前の仮想敵ノーブルウッドと相対するわけにはいかなかった。


 <地図(マップ)>に映された地形情報には、大樹の合間に柵を打ち据えたような形の外壁が首都を覆っているのが見て取れた。東西南北に、それぞれ一箇所ずつ穴が空いている。そこが門になっているのだろう。


 その内の一つ。

 ヘリアン達一行が進入しようとしている南門に、黄色の光点が複数灯っている。

 事前の索敵魔術により察知(サーチ)済みだった光点はノーブルウッドの兵士だ。


 黄色は仮想敵、ないしは敵寄りの中立ユニットを意味する色だ。

 敵を示す赤ではない。

 まだ、完全に敵と決まったわけではない。


「往くぞ。事前に説明した通り、ノーブルウッドが手を出してこない限りは攻撃禁止だ。何を言われても、私が命令しない限りはこちらからの攻撃は固く禁ずる。いいな?」

「ハッ」

「承知致しました」


 リーヴェとエルティナが返答する。

 アルキマイラからの(とも)は、この二人だけだ。

 カミーラにも旅人設定はあったが、ノーブルウッドに存在を知られていないので、今は他の軍団と同じく身を潜めて待機していた。


 既に、最低限の守備隊を除いた全軍団が深淵森(アビス)を抜けている。

 ヘリアンの命令一つで、融合魔獣アルキマイラは瞬時にその牙を剥くだろう。


「レイファ殿。覚悟は良いか?」

「はい……問題ありません。それから、私の事はどうかレイファとお呼びください。敬称は、その、不要ですので……」

「……そうか。では、そうさせてもらおう。レイファ」


 期せずして出会った当初と同じ呼び方となった。

 しかし、そこに篭められている意味はまるで異なる。

 互いに立場を明かした結果、必然的に関係性も変わってしまっていた。

 ……それを寂しく思うのは、きっと自分の我儘(わがまま)でしかないのだろう。


「ヘリアン様。ノーブルウッドのエルフがこちらに気づいたようです」


 門の前に立っていたノーブルウッド兵が弓を構えようとしていた。

 敵意の無いことを示す為、ヘリアン一行はその場で立ち止まって両手を上げる。

 事前の打ち合わせ通り、レイファが一歩進んで声を張った。


「ノーブルウッドのエルフよ! 私はラテストウッドの女王、レイファ=リム=ラテストウッドです! 要求通り、旅人一行を連れて来ました!」


 レイファの宣言に、ノーブルウッド兵らは警戒しつつ距離を詰めてきた。

 やがて互いの顔が見える距離になると、彼らは番えていた矢を背の筒に戻す。


「……ほぅ、逃げずにやってきたか」

「そのようです、兵士長」


 遅れてやってきたエルフ――兵士長と呼ばれた男が、感心したように呟いた。

 他のエルフは弓を手にしていたが、彼だけは弓を持っていなかった。代わりに、腰に短剣を二本差している。


 リーダー格に見えるが、狩人長とはまた違う。事前に聞いた話によれば、兵士長とは、狩人長の下に付く前線部隊の長であるらしい。


「こっちだ。付いてこい」


 兵士長は顎をしゃくって首都の方角を指す。

 使者を迎えるにしては傲慢な態度だったが、リーヴェとエルティナは王命通り黙って従った。


 首都の門を潜ったヘリアンが目にしたのは、戦争の爪痕が著しい街の姿だった。

 崩れ落ちた民家や、倒壊した大樹に押し潰された建物などが至る所にあった。

 むしろ無事な家屋の方が少ない。

 中でも黒く焦げ焼け落ちた建物が目立つ。


 業火に巻かれて大被害を受けた、とレイファは言っていた。

 その結果が目の前の惨状なのだろう。

 そしてあろうことか、焼け落ちた建物の中には、建造物の残骸だけではなく、黒焦げになった人間大の大きさの炭塊が転がっていて――


「……ッ」


 見なかった。

 俺は何も見なかった。

 今は余計な事に気を取られている余裕などない。


「――思ったよりも早かったではないか。殊勝な心がけだ」


 嫌味ったらしい声色に顔を上げれば、こちらを見下ろす高台には既知の顔があった。あの時、レイファを襲っていたノーブルウッドの狩人長――サラウィンだ。


「ノーブルウッドの代表は……交渉相手は、貴方ということか?」


 案内を終えた兵士長がその場を離れていく。

 遠巻きに何百人ものエルフがヘリアン一行を囲んでいたが、近づいてくる気配は無かった。

 付き人を従えて堂々と現れた狩人長――サラウィンの他に、身分の高そうなエルフは見当たらない。


「交渉? 貴様は何を言っている?」

「我々はラテストウッドの女王の要請によってこの場に来た。無理矢理に連れてこられたわけではなく、自らの意思で此処(ここ)に来たということをまず伝えておく」


 サラウィンは苛立たしげに眉間を寄せた。


「それで?」

「交渉がしたい。我々は話し合いを求めている」


 そう、まずは交渉だ。

 ノーブルウッドの代表者と話し合いの場を持つ。


 無論、要求通りに引き渡されるつもりなど毛頭ない。

 しかし、だからといって最初から実力行使を行うつもりもない。

 エルティナの高い魔力や何らかの魔術が目的ならば、交渉により事態を解決出来る可能性が残されているからだ。


 ……同時に、日本で生まれた良識のある一人の人間として、武力での解決は最後の手段としておきたい気持ちもあった。


「私は、貴国とは交渉の余地があると考えている」


 あんな演説をぶち上げておいて何を、と自分でも思う。

 けれど、実力行使とは即ち戦争状態になることを意味した。

 ヘリアンの命令一つで開戦が決まるのだ。


 自分の一言で戦争が起きて人が死ぬ。

 それを思うだけで手が震えた。

 足は今にも立ち止まりそうになる。

 今すぐ帰って布団の中に潜り込み、眠ることが許されるならどんなに幸せだろうかとの誘惑に駆られる。


 しかし、怯懦(きょうだ)に呑み込まれそうになる度にヘリアンは己の右手を見た。

 少女と約束を交わした小指を見た。


 この先でリリファが待っている。

 指切りを交わした少女が、助けが来るのを待っている。

 ヘリアンが見捨てれば確実に失われるであろう命が、手の届く位置にある。


 なら、見捨てられるわけがない。

 助けられるのに見捨てるなど出来るわけがない。

 それが出来るのはきっと強い人間なのだろう。

 小を切り捨てて大を救う判断を、躊躇いもなく出来る人間なのだろう。

 その人は立派な指導者になる素質があると思う。

 だが、ヘリアンには到底無理だ。


 助けられるにも関わらずあえて見捨てるなどと。

 そんな恐ろしいコトが出来るわけもない。


「我々を呼んだ目的を聞きたい。貴国が必要としているのはハイエルフらしいが、何が目的だ? 高い魔力を見込んでのことか? それとも古代魔術ロストスペルか? 事と次第によっては、平和的に協力しても良いと考えている」

「人間風情が立場も(わきま)えず良く吠える。……そこのハイエルフよ、貴公は何か言うことは無いのか?」


 水を向けられたエルティナは、エルフ達の無遠慮な視線に晒されながらも、堂々と背筋を伸ばして口を開く。


「交渉については全権をヘリアンさんに……こちらの人間の方に任せています。私からは特に何も」

「それでも貴公はハイエルフか。先日の一件でただならぬ魔力を持っていることは分かっている。我らエルフでさえ知らぬ術式を操り、更にはこの私を退ける程の実力者とあらば、我らが始祖たるハイエルフを置いて他にない。それが何故人間などに付き従う。コイツらは野蛮な劣等種族だぞ」

「私がエルフの系統に属する事は否定しませんが、私の価値観と貴方がたの価値観は、随分と異なっているようですね」

「フン……エルフとしての挟持(きょうじ)を忘れたか。まあ良い。それならばむしろ我々にとっても好都合というものだ」


 聞き捨てならない言葉だった。


「好都合? どういう意味だ?」

「こういう意味だ、人間。その薄汚い目を見開いてよく見るがいい」


 サラウィンはヘリアンを見下しながら空に右手をかざした。応じるように、金切り声が空から降ってくる。まるで嘆亡霊バンシーの泣き声のようだ。


 咄嗟に見上げれば黒い影があった。

 影は急速に高度を落とし、サラウィンの背後にふわりと着地してその姿を晒す。


「……竜?」


 外見の形状フォルムは西洋竜のそれだった。

 全身に銀と白の中間色のような鱗をビッシリと生やし、全長は二十メートル近くもある。しかしながら、胴体は肋骨が浮き出るほど肉付きが悪く、どこか不気味な印象を感じさせた。長い首からは蜥蜴(トカゲ)に似た形状の頭部がせり出しており、一本の細い角を生やしている。


 翼の数は六枚。

 しかしその三対六枚の翼は、ヘリアンがよく知る竜翼とは異なり、まるで蝶の羽のようだった。透き通った虹色の薄い翼は、触れれば砕けてしまいそうな脆さと美しさを兼ね備えている。


 ヘリアンは[タクティクス・クロニクル]に登場する全種族をほぼ暗記しているが、そのヘリアンでさえ、見たこともない竜種だった。


「まさか、妖精竜フェアリードラゴン……?」


 レイファが呆然と呟いた。


「然り。“(けが)れ”とは言え我らエルフの血が混ざりし者。さすがに知っていたか」

「封印を解いたというのですか!?」


 信じられない、という感情を乗せてレイファは声を張り上げた。

 何やら特別な竜らしいが、ヘリアン達はまるで理解が追いついていない。


 一般的な竜とは違うことは判る。それなりの力は持っていそうだ。

 だが、単に力を持つ竜であれば、レイファはアルキマイラの城から群れ単位で見ていた筈だ。それに比べて、目の前に居るのは得体が知れない竜とはいえたった一体。彼女の狼狽する理由が分からない。


「レイファ。何なんだ、アレは? それほど強力な力を持つ竜なのか?」

「……アレは、エルフ族に伝わる叙事詩に出てくる竜です」


 レイファの声は震えていた。


「言い伝えでは、(いにしえ)の神がエルフ族に与えた神造竜と言われています。世界が危機に瀕した際にはエルフの守護竜として力を振るったとも……。ですが戦いの後、古のエルフ族の手によって遺跡に封印されたはずです。……封印されていた、はず、なのに……」

「その封印を、我らノーブルウッドが解呪したということだ。一体解き放つだけでも、随分と苦労させられたがな」

「そんな……」


 レイファの顔色は今にも倒れそうに悪い。

 まるで、気付きたくない何かに気付いたような、そんな表情だった。


「どうしたんだレイファ。強力な竜であることは解ったが、何故そんなにも取り乱す。それほど手強いのか?」

「叙事詩に謳われる限りでは、魔王を退ける一助となったほどの竜です……。ですがあの竜は、封印されていなければならないんです……だってあの竜は……あの竜が、活動する為には……」

「――エルフ族の血肉が必要になる」


 レイファの言葉を遮り、サラウィンは端的な事実を口にした。

 サラウィンの頬の端が浮き上がり、愉悦の表情に歪む。


「冥土の土産というやつだ。無知な貴様らにも分かり易いよう教えてやる。

 ――よいか。強力な力には代償が必要だ。我らエルフの守護者たる妖精竜もまたその例に漏れない。いや、むしろその象徴のような存在だと言えよう。

 強力無比な力を誇る代わりに、その身はエルフ族の血肉しか受け付けない。だからこそ、(いにしえ)のエルフ族は妖精竜を封印したのだ」


 心臓が跳ねた。

 冷たい汗が背筋を流れ落ちる。


「だが、我らノーブルウッドはどうしてもその力が必要だった。百年前の忌まわしき過去を払拭(ふっしょく)する為に、我々は野蛮な人間どもに敗れた屈辱を怒りに変えて、妖精竜の封印解除にただひたすら取り組んできた……! そして我らが執念は身を結び、ついに百年かけて封印を解き放ったのだ!」


 百年前の忌まわしき過去。

 百年前に起きたという、人間とノーブルウッドとの戦争。

 レイファに聞いた話では、事実上エルフ側の敗北に近い引き分けだったという。


「だが、封印から解き放たれた妖精竜は酷く飢えていた。とてもではないが、すぐに戦える状態ではなかった。だが、我ら叡智(えいち)を極めしノーブルウッドに抜かりはない。妖精竜の(かて)となる者共を、この日の為に()()()()()()()()()()()()()()()


 心臓が早鐘を打つ。

 ヘリアンは焦燥感に囚われたように記録を掘り返した。


 ラテストウッドがノーブルウッドに襲われたのは、約一ヶ月前。

 ノーブルウッドは逃げたハーフエルフを殺さずに捕らえようとしていた。


 ハーフエルフは純血では無いものの、種族としてはエルフ族に属する。

 そして、妖精竜の身体はエルフ族の血肉しか受け付けない。

 エルフ族しか、食べない。


 それが意味するところは――


「……まさか。妖精竜が、この一ヶ月の間、食べていたのは」

「然り。ハーフエルフ共だ」


 ようやく分かったか愚物が、と。

 サラウィンは鼻を鳴らして吐き捨てた。


「ここまで妖精竜を回復させるのには苦労を強いられたぞ。なにせ生き餌でなければ妖精竜は口にしない故、無闇矢鱈(むやみやたら)にハーフエルフ共を殺すわけにもいかなかった。しかもハーフエルフ共は個体ごとに品質が異なる。我らの貴き血が濃く流れていれば良い糧になるが、人間の血が濃すぎると餌にもならん」


 個体。品質。餌。

 吐き気をもよおす単語が並ぶ。

 ノーブルウッドは、ハーフエルフのことを家畜としか見ていなかった。


「そこのハーフエルフの母親のように、見た目で明らかに“そう”と分かればまだ良い。だが、実際には一度喰わせてみないと分らぬことの方が多かった。これはさすがの我々も計算外だった。捕えた者の内の半分がゴミでしか無かったと気付かされた時は流石に怒りを覚えたぞ。だが……!」


 怒りの表情から一点、サラウィンは表情を喜悦の二字に歪ませる。

 血走ったその双眸はエルティナを捉えていた。


「そこに現れたのが、ただならぬ魔力を保有するハイエルフだ! 伝承によれば、ハイエルフ一人を捧げるだけで、妖精竜は一ヶ月もの間活動することが可能だという! ハーフエルフを全員食わせても完全回復が成らぬかもしれぬと解った矢先に、豊潤な魔力を持つ余所者のエルフ族が、しかも高位種たる存在が我らにもたらされたのだ! これを天啓と言わずしてなんと言う!?」


 恍惚こうこつとしてサラウィンは語る。

 まるで己の為した偉業を聴衆に語り聞かせるかのように。


「しかも、そのハイエルフはエルフ族としての矜持きょうじを忘れ、人間に付き従っているというではないか。我らと志を共にする者であれば躊躇ためらったろうが、精神が人間に汚染されているとあらば我らの心は何ら痛まぬ。安心して妖精竜の糧に出来るというわけだ。そして、その豊潤な魔力は妖精竜の血肉へと代わる」


 光栄に思え。

 ノーブルウッドの代表者は、臆面(おくめん)も無くそううそぶいた。


「ああ、そうそう。確か、そこのハーフエルフは、先日母親を奪い返しに来たのだったな? ハイエルフを連れてきた褒美だ、こんなモノでも欲しければくれてやろうではないか」


 合図を受けたエルフの兵士が、大樹の枝にかけられていた汚い布を取り払った。

 露わになった枝には、一本の荒縄がくくりつけられている。

 その縄の下に、吊るされているモノがあった。


 純血のエルフではない象徴だったからか。

 豊満な乳房を切り落とされ。

 首に縄を掛けられ。

 枝に吊るされた亡骸ソレは。


 力無く。

 風に煽られ。

 吊遊具ブランコのように。

 ぶらぶらと。

 揺れていた。


「……………………お、母様」


 レイファが遂に、その場に崩れ落ちた。

 白過ぎる少女の頬に冷たい雫が流れて伝う。


 ――もう無理だ。

 これ以上黙っていられるものか……ッ!!


「リリファは……昨晩(さら)ったハーフエルフ達は何処だ! 貴様らは“神樹の名に誓った”のだろう!? “旅人の一行”は約束通り此処(ここ)まで来たぞ! だから貴様らも約束を果たせ! 今すぐリリファ達をラテストウッドに返せッ!」


 叩きつけるように叫ぶ。

 こんな聞くに耐えない話を、これ以上続けさせてたまるものか。


 まずはレイファ達の安全を確保することを最優先とする。目の前のコイツらをどうするのかはその先の話だ。


 交渉も何もかも後回しでいい。

 こんなところに彼女達を一分一秒でも留めるわけにはいかない。


「リリファ……ああ、アレのもう一人の娘か。成程、貴様らが大人しくこの場に現れたのは、あの娘が目的というわけか」


 得心したようにサラウィンは頷いた。

 応じるように、取り巻きのエルフ達もニヤニヤと下衆な笑みを浮かべる。


 何やら勘違いされているらしいがひたすらどうでもいい。

 一刻も早くハーフエルフ達を奪還し、一秒でも早くこの場を離れる。

 今のヘリアンが考えられるのはそれだけで――





「――だが、少々遅かったな」





 ――一瞬、何を言われたのか解らなかった。

 脳が思考を拒絶した。


「…………待て、ちょっと待て……遅かったって…………なんだ?」


 まるで。

 間に合わなかったかのような。

 既に手遅れになってしまったかのような物言い。

 けど。

 そんなわけは無い。

 だって俺達は。

 ちゃんと約束を守って。

 ここまで、来たじゃないか――。


「安心しろ。ハイエルフが手に入らなかった時の保険として、他のハーフエルフ共はまだ生かしてある。妖精竜には人間の国に攻め込む直前の栄養補給が必要だからな。だが、その時までの“つなぎ”は必要になる。数を減らすわけにはいかない以上、質を優先せざるを得ないのは自明の理だ。

 故に、仮にも王族ならば相応の魔力があるだろうと試してみたのだが……潜在魔力量はともかくとして、あの個体は母親と同様に人間の血が濃かったようだな。妖精竜にとっては不味かったらしく、一部は吐き出されてしまったと来た」


 ほれ、とサラウィンは棒状の何かを無造作に放った。

 その棒は何度か地面を跳ねて、へたり込むレイファの下まで転がって来る。


「――――、」


 棒じゃなかった。

 棒に見えたソレは、細い女の子の腕だった。

 手の形から右手と解った。

 そして、その小指の指輪に、ヘリアンは、どうしようもなく、見覚えが――。


「…………な、んで? 神樹の、誓い、は……?」


 視線を上げて、ソレを放ったサラウィンを見上げる。

 サラウィンは、喜悦と侮蔑の入り混じった表情を浮かべ、口を開く。


「『神樹の誓約』はエルフにとって絶対のもの。確かにそれはそうだ。しかし、約定を交わした相手がハーフエルフならば話は別だ。このような“穢れ”に対し、守るべき誓いなど無い。誓いを違えたところで、我ら貴きエルフの誇りに傷がつくことはないのは明白であろうに」


 愚か者めが、と。

 サラウィンは臆面もなくそう嘯いた。


「――――――――」


 そして、ヘリアンは。

 告げられたその言葉を頭の中で噛み砕き。

 何度も何度も咀嚼した後。

 約束を交わした少女の姿を思い浮かべながら。

 地べたに転がる細い腕を見て。

 そうしてようやく。

 理解した。


「……ああ」


 ――ぶぢり、と。

 頭の何処かで嫌な音がした。


「もういい」


 熱いものが瞳から零れ落ちる。

 涙ではない。

 断じてそんなモノではない。

 ドス黒い感情から零れ落ちたソレが、そんな綺麗なモノである筈もない。


「ようやく分かった」


 ああ、そうだ。

 ようやく分かった。

 目の前にいる生き物の正体が。

 誓いを破り、死者を冒涜する事を良しとする貴様らが何なのか、


「よく分かったとも」


 エルフが掲げていた戦争の名目は嘘だった。

 化石のような純血主義を振り(かざ)しているわけですらなかった。

 人間に対する復讐装置の生贄を必要としていただけだった。

 自分達が生贄になることを(いと)い、ハーフエルフを利用しようとしていただけだ。


「俺が、馬鹿だった」


 交渉出来ると思っていた。

 平和的に解決することも不可能ではないと考えていた。

 暴力以外の解決方法がある筈だと信じていた。

 戦いに発展させることを嫌っていた。

 この期に及んで人殺しになることを恐れていた。

 怯懦(きょうだ)の感情を抱えていた。

 だが――


「貴様らは人じゃない」


 こんな奴らが人である筈がない。

 人ならばこんな非道な事が出来るわけがない。

 コレは言葉が通じるだけのケダモノだ。

 それがたまたま人の形をしているだけのこと。

 俺はそれを解っていなかった。

 とんだ誤解だった。

 コイツらは。

 目の前の、人の形をした獣の正体は……ッ!!


「貴様らは害獣モンスターだ。今、ようやくそれが分かった……!

 何がエルフの誇りだ、何が『神樹の誓約』だ!

 それすら破った貴様らはもうエルフですらない!

 ただの醜い化物だ、人に害為す害獣モンスターだ!!

 ああ、そうだッ! 貴様らはエルフどころか人ですらないッ!!

 もはや貴様らを人とは認めん――――ッ!!!」


 叫びと共に、視界右側に表示させていた戦術仮想窓タクティクスウィンドウへ拳を叩きつける。

 仮想窓(ウィンドウ)に表示されていた【宣戦布告】の四文字が白から紅に染まった。

 王の殺意いしは瞬間でアルキマイラ全軍に行き渡る。


 同時に街全体を結界が覆った。

 第四軍団が構築した広域結界だ。

 誰かを守る為のものではない。

 誰一人として外に逃さぬ為の結界ろうごくだった。


「こ、これは……!?」


 狩人長の称号は伊達では無かったのか。

 他のエルフは結界を張られた事にすら気付かなかったが、サラウィンだけは異変を察知し、空を仰いで狼狽(ろうばい)の言葉を漏らした。


 そこへ紅蓮の光が空から降ってきた。

 光は着弾するなり爆炎の華を咲かせ、破壊を撒き散らす。

 サラウィン達が立っていた高台もまた、爆砕されて跡形も無くなった。


 その結末を見届けることなく、万魔の王は激情のままに命令を下す。


「セレエエェェェェェス!! 攻撃は他の軍団に任せて第四軍団は閉鎖結界の維持のみに注力させろッ! 敵勢力を一匹たりとも外には出すな! いいか!? 一匹たりともだ!! この害獣共は、今此処で根絶やしにする――ッッ!!!」




    +    +    +




 街にいるノーブルウッド兵は極度の混乱に陥っていた。


 必死に逃げ惑う彼らの頭上には、空から降り注ぐ多数の火球があった。

 その数だけでも十分に恐ろしいが、威力も半端なものではなかった。

 一つ一つが彼らの頭よりも大きい火球が次から次へと降り注ぎ、墜落するなり破壊の嵐を巻き起こす。


「何だ! 一体何が起きた!?」


 答えられる者はいない。

 皆、自分の命を守ることで精一杯だった。

 数分前までは平穏を謳歌していたというのに、今や見える景色は破壊の二字だ。


「まさか、あのハイエルフの仕業か!?」


 ハーフエルフ共の首魁が、ハイエルフを連れた旅人一行を連れてきたことについては、(みな)知っていた。無論、ハイエルフをどう扱うのかについても同様にだ。


 ハーフエルフならばともかく、自分達の高位種族たるハイエルフを妖精竜の生贄に捧げるのは躊躇(ためら)われた。しかも実際に目にしてみれば、それはノーブルウッドのエルフ達でさえ目を奪われる美しい容姿をしていた。その美貌に、熱を帯びた溜息を零す者さえ居たほどだ。


 しかしながら、様子を遠巻きに窺いながら話を聞いていれば、あのハイエルフにはエルフとして当然の矜持を有していなかった。それもあろうことか、薄汚い人間に唯々諾々と付き従っているようにも見受けられる。


 若いエルフの中には、彼女の美貌に眩むあまり『人間に無理矢理従わされているのであれば助命嘆願をも厭わない』と考えていた者すら居たが、自ら人間に従っているハイエルフを見て、その気持ちは完全に萎えた。エルフ族としての矜持のない者ならば、生贄にしても何ら心が痛まない。


 彼らがハイエルフを助けようとしていた自分の心を恥じていた――その時だ。

 人間の男が何事かを叫び、紅蓮の光が空から降ってきたのは。


「くっ……避けきれるような物量ではない! 各自、障壁を展開せよ!」


 ノーブルウッドの兵士は瞬時に詠唱を開始し、身を守る為の魔術を練り上げる。

 しかし魔術が完成するまでの間に、何人もの仲間が真紅の爆炎の中に消えていった。ようやく魔術を紡ぎあげ、障壁を展開した頃には、既に数十人以上の犠牲者が出ていた。障壁を張り終えたノーブルウッド兵達が、一斉に声をあげる。


「敵襲だ! 魔術による砲撃を受けている!」

「そんなことは分かっている! 今更言う事か!」

「何処だ! 敵は何処にいる!?」

「そもそもどこの勢力による攻撃だ! これだけの物量……十人や二十人では利かぬぞ!?」

「まさか“穢れ”共の仕業か!? いや、しかし奴らにこんな高等魔術が使えるわけがな――ガッ!?」


 怒号を交わし合っていたノーブルウッド兵。

 その内の一人の声が中途半端に途切れた。

 何が起きたのかと、近くにいた兵が声の発生源に視線をやる。するとそこには、着弾した火球が作ったらしき大穴と、弾け飛んだ仲間の肉片が転がっていた。


 ――障壁が突破された。


 その事実を認識し、彼は背筋を凍らせた。


「馬鹿なッ! 我らの障壁をたった一発の攻撃魔術で貫通するだと!?」


 それは彼らの常識に反していた。

 彼らエルフは魔術に長けた種族だ。華奢な身体は近接戦闘こそ不向きだが、魔術という分野においては大陸四大種族の中で最も優れている種族と言えた。


 更には自分達は()えあるノーブルウッドの一族。その中でもラテストウッド襲撃の為に集められた先遣隊は精鋭揃いであり、人間との戦争も経験した古強者ばかりだ。つまり、この場にいるノーブルウッド兵こそが、最強の魔術集団であると言っても過言ではない。


 少なくとも彼らはそう信じていた。

 しかしそんな彼らを嘲笑うかのように、降り注ぐ火球は障壁を薄紙のように貫通し、破壊の嵐を巻き起こす。

 そんな地獄のような時間が終わりを告げたのは、視界に映る仲間の数が半分近くに減ってからのことだった。


「……お、終わったのか?」


 魔力消費の激しい障壁を解除しながら、ノーブルウッド兵の一人が呟く。

 背を丸くして周囲を窺うその様は、傍から見れば巣から恐る恐る頭を出す小動物のようだった。

 彼は、一体何が起こったのか、と周りを見渡そうとして――


「否。これから始まるのだ」


 ――目に映る景色が一周した。


 いや、一周どころか何周も景色が回っている。今度は幻惑魔法の類か、と警戒しようとしたが体が動かない。やがて回っていた景色が停止する。固定された視界に映るのは、獅子の頭をした獣人と、その前で倒れゆく首のない一人のエルフの姿。


 首を刎ね飛ばされた彼が、その体が自分のものだと気付く前に絶命できたのは、幸運以外の何物でもなかった。


「アルキマイラが爪、第二軍団長バラン=ザイフリート。推参した」


 獅子頭の獣人――バランは、蒼い輝きを放つ刀身を払い、血糊を振り落としながら周囲を見渡す。


「……と言っても、ここに居るのは人にあらざる害獣モンスターばかり。名乗る必要は無かったか」


 呟くバランの背後に集うは第二軍団。

 獣人や騎士職を中心に構成された、陸軍相当の軍団だ。

 栄誉ある一番槍の任を与えられた彼らは、規律を重んじる第二軍団をして高揚に身を浸していた。


 無理もない。

 ただでさえ王の演説により興奮の極致にあった上に、更にはこの世界での初陣における一番槍だ。これで高揚するなという方が無理難題だろう。


 ズラリと立ち並ぶ第二軍団の兵士。

 その様は、今か今かと飛び出す瞬間をつけ狙う猟犬に似ている。

 その首輪を断ち解くようにして、バランは掲げた聖剣を振り下ろした。


「第二軍団、進撃せよ」


 陸上戦力による蹂躙が開始された。




    +    +    +




 狩人長、サラウィンは眼前に広がる光景に目を剥いた。


 肩にかなりの痛みを感じる。

 咄嗟の判断で全ての触媒を投げ打ち、全力で障壁を展開したが、それでも謎の砲撃の威力は防ぎ切れるものではなかった。

 命を守りきることには成功したものの、至る所に裂傷や火傷を負っている。おまけに高台から落下した時の衝撃で、肩の骨が折れているらしい。


 しかし、その痛みさえどうでも良くなるような光景が目の前にあった。


「何だこれは……何なのだこれは!?」


 魔術による爆撃が止んだかと思えば、次に襲ってきたのは鎧に身を包んだ獣人の集団だった。獣人特有の四足を使った進撃速度は風のように速い。


 ノーブルウッド兵の中には、身を挺してその進撃を食い止めようとする者もいたが、いずれも一太刀の下に切って落とされている。勇敢な一人の兵士が命を捧げて稼げた時間は二秒にも満たなかった。戦いにすらなっていない。


 栄えあるノーブルウッドの兵士達が、為す術も無く蹂躙されている(・・・・・・・)


「フェ……妖精竜フェアリードラゴンよ! エルフの守護竜よ! どうか我らを守り給え!」


 妖精竜への指令権を有していたサラウィンは、即座に命令を下した。

 人間との決戦まで温存する筈の切り札だったが、今ここでノーブルウッドの勇士達を失うワケにはいかない。


 ここに居るのはノーブルウッドの主力だ。

 今ここで多くの仲間を失っては戦争を始めることすら出来ない。

 妖精竜に多少の消耗を強いてしまうことになろうとも、被害を最小限に抑える必要があった。


 妖精竜は(いにしえ)の契約に従う。

 守護の任を帯びた竜は命じられるまま空に飛び立ち、戦場へその身を投じた。


 結論を言えば、サラウィンの判断は正しかった。

 エルフ達では謎の集団による襲撃を食い止められず、被害は拡大するばかりであり、妖精竜を投入するべきだというその判断はどこまでも正しかった。


 ――但し、妖精竜を投入してどうにかなるかは、まるで別の問題だ。


「ほぅ、竜種か。であるならば、我らが英雄譚の一文となるだけの資格はありそうだ。雑魚ばかりかと思っていたが、多少は歯応えのありそうな獲物で安心したぞ」


 妖精竜は声を聞いた。

 音ではなく波動で伝わる声無きこえだ。

 竜にのみ認識可能なその波動を、妖精竜は今世で初めて耳にした。

 それはつまり、同族ドラゴンが自分以外にもこの空域に存在するということであり――


「害獣に告げる名は無いが、盟約を果たしているだけの竜にならば名乗っても良かろう。我こそはアルキマイラが翼、第八軍団長ノガルド=ニーベルングである」


 ――同時に、妖精竜に対する死刑宣告でもあった。


 空に舞う妖精竜の眼前に現れたのは一人の青年。如何なる法則を従えてのことか、翼も術も使うこと無く青年は宙に在った。太陽を背にした青年はどこか芝居がかったような仕草で、天地を迎え入れるように両腕を広げる。


 その身を以って十字架を象った青年。その姿に底知れぬ畏怖を覚えた妖精竜は本能で即応した。


『キアアアァァァァアアァアアアァァァ――ッ!』


 断末魔のような金切り声。

 妖精竜は、その口蓋から業火を解き放つ。

 ラテストウッドの首都を、一夜にして攻め落としたほどの火力を持つ灼炎だ。

 指向性を持った業火は怒涛の勢いで青年の姿を容易く呑み込み――


「演出ご苦労。随分と気の利いたことだな?」


 ――内側から爆砕の勢いで撒き散らされた。

 紅蓮の中から現れた姿はもはや青年のソレではない。

 黄昏の下に晒されたその身は、全長四十メートルを超える巨体だった。


 細身にすら見えたその脚からはバールのように太い爪が生え、その巨体を支えるに足る太く強靭な骨格へと形を変えた。人間には有り得ない逆関節の形状へ変化させた後ろ足が、飛行の為に胴体下部に折り畳まれる。

 その胴体から後方に伸びるのは大樹をも薙ぎ払える長く強靭な尾であり、反対方向に伸ばされたのは雄々しく太い首だ。


 そしてその先に象られたのは蜥蜴(トカゲ)にも似た形状の頭部だが、その正体は決して蜥蜴などという可愛げのある存在ではない。アギトから見え隠れする牙は生態系の頂点すら噛み砕く鋭さを有しており、更にその頭頂部には蜥蜴などが持ち得る筈もない二本の太い角を生やしていた。


 更に、誇らしげに掲げられていた両腕は分厚い皮膜を有した翼へと形状を変化させ、一度宙を打つだけで大気の怯える声がした。


 その身は天穿つ神話存在。

 その身は天裂く叙事幻獣。

 その身は天翔る最強種族。


 アルキマイラが世界に誇る最大火力にして竜の頂点。

 神話系統幻想級最強種に位置せし“黄昏竜”の姿が其処に在った。


『さあ――始めようか』


 金色に輝く瞳をぎょろりと動かし、黄昏の竜は妖精の竜を視界に収める。


『貴様は守護竜なのだろう? ならば精々その任を果たすべく抗い――そして我らが英雄譚の一文と化すがいい』


 そのこえに、妖精竜は業火を以って答えた。

 しかし、二度目の灼炎は巨大化した黄昏竜ノガルドの全身を包むことすら出来ず、彼の紅蓮色の鱗で全てを弾き散らされた。


 ならば、と妖精竜は蝶のように薄い三対六枚の羽根を広げ、その一枚一枚に魔法陣を展開する。五秒の時間を以って魔力を充填された魔法陣は一際強い輝きを放ち、その輝きは矢へと姿を変えて放たれた。


 その数、実に百二十。

 六枚の魔法陣から放たれた光矢は群れを成し、誤つこと無く黄昏竜の下へと疾駆する。――だが。


『児戯に等しい』


 その全てがまたも弾き散らされた。

 防御をされたのではない。

 そもそも黄昏竜は何もしていない。

 ただ無防備に妖精竜の放った光矢をその身に浴び、その鱗で以って全てを弾いただけのことだった。


 その有り得ない現実を目にして、妖精竜の瞳に影が落ちる。

 このようなことは今までのいかなる戦いでも経験したことはない。

 今妖精竜が撃ち放ったのは、持ちうる数多の魔術の中でも最大威力を誇る大魔術だ。

 それが、幾ら自身の力が全盛期の半分以下にまで痩せ衰えているとはいえ、素の防御性能だけで耐え切られるなど有り得ない。防御行動を取らせることすら出来なかったなどと、認められるはずもない。

 しかし、その瞳に映る現実には、傷一つ負っていない黄昏の竜の姿がある。


『……もう終わりか?』


 嘲笑の色が混ざった問いに、妖精竜は行動で答えた。

 眼前の竜に背を向け、距離を取るべくその羽根で空を打ったのだ。


 その行動に、眼下で戦いを見守っていたサラウィンは『逃げるな、戦え』と思念波を送ってきたが妖精竜は無視した。


 そもそもこれは逃亡ではない。

 あくまで距離を取って、あの敵に有効な攻撃手段を構築する時間を稼ぐだけだ。


 確かに本能とも言えるべきものは逃げろと喚き散らしていたが、盟約に縛られた妖精竜には逃亡は許されない。だが戦術的撤退ならば出来る。これは逃亡ではなく、敵に対する有効な戦略を編み出す時間を稼ぐ為の回避行動に過ぎない。


 妖精竜はその論理で以って、盟約の力を帯びたサラウィンの命令を捻じ伏せ、棄却むしした。そして本能が命じるまま、距離を取るべく全速力で空を飛び、


『教えてやろう。その感情を恐怖というのだ』


 遠く置き去りにした筈の黄昏竜に容易く追いつかれた。

 その有り得ない速度に妖精竜は回避運動すら忘れ、悠々と並走する黄昏竜の姿に目を剥く。


『何を驚く。そのような脆弱な羽根で我が翼から逃れようなどと愚行に過ぎるぞ』


 妖精竜の羽根は物理法則に基づき、空気を打って移動する。

 しかし、対する黄昏竜の翼は穿ち裂いた空を翔る。

 空を征く身を阻むものは、それが何であれ“穿ち裂く威”に晒されるのだ。

 それは大気でさえ例外ではない。

 何の魔術も展開されておらず、誰の支配下にも収められていなかった首都上空の“大気”は黄昏竜の翼により穿ち裂かれ、その進路上から退いた。


 後に残ったのは真空の通路であり、空気抵抗が零となった黄昏竜専用の最速空間だ。黄昏の翼は大気の代わりに魔素をかき分けると同時、重力制御との併用で以って音すら置き去りにする。


 呆然とする妖精竜にもよく見えるよう、黄昏竜はゆっくりとアギトを開放した。

 そこには妖精竜の業火すらも灼き尽くす、本物の灼炎が籠められている。


『かような害獣共の守護をせねばならない貴様には竜として同情を禁じ得ないが、我らアルキマイラに逆らう者には容赦をする理由が無い。故に貴様は此処で死ね』


 妖精竜は絶叫した。

 その金切り声は、正しく断末魔の音を帯びて、ラテストウッドの首都に響き渡った。




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